ビートたけしの「照れ」と傲慢

25日に放送された『爆笑問題のニッポンの教養
』で、太田光が、「ビートたけしが、本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった、というのは、それは彼の照れであって、ずるい」というようなことを言っていたが、同感である。こういう太田のセンスとかスタンスは、僭越ながら僕のそれとかなり近いな、と思えるところがあって、番組の締め括りの彼の言葉(早稲田の学生に向けて「ピュアな気持ちや意思、考えを、世に訴えるには、芸に乗せなければならない、そのために芸を磨くべき、云々」)など、まさに我が意を得たりの心境であった。

それはともかく、ビートたけしの「照れ」についてだが、今朝「ズームイン!!SUPER」で例のお笑いBIG3特番
の番宣ニュースをやっていて、たけしがタモリとの関係を聞かれて「お互い照れ屋だから、会っても睨み合ってる」と言っていた。「睨み合ってる」は冗談としても、じゃあたけしは照れ屋かというと、それは違うだろう(タモリと相対すると照れ合ってしまうことは事実だろうが、かといってたけしやタモリが照れ屋であることにはならない)。ここ
でも書いたけど、たけしの「照れ」はフリであって、何かを照れ隠そうとする戦略的な振る舞いだ。
じゃあ何を隠してるのかというと、バイタリティと動性のコンプレックスに溢れた成功者としての己の像である。「本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった」というようなことを言い出すのは、恐らく90年ぐらいからであって、その頃にはたけしはすでにタレントとして栄華を極めていた。そこからさらに映画の世界でも世界的な成功を収めるのだが、たけしは、自身が、さらにそれ以上の存在になり得ることを暗示するために、「照れ」る。
つまり、あの「照れ」の意味は、「いや、そんなこと(タレントや映画作家としての成功)どうでもいいんだけど…」という傲慢だ。
「さらにそれ以上の存在」とはどんな存在か。それはバイク事故でもって己の生死すらも弄ぶような存在、なのかも知れない。

とにかく、ビートたけしは、日本の芸能史の中に一際大きな存在として刻まれるであろうことは間違いない。美空ひばり並みか、ともすればそれ以上だろう。

いよいよ今日から日テレのBIG3特番が始まる。まずは明石家さんまからだ。フジの『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!
』以来、最近はBIG3が久々に大きくフィーチャーされ、全くもって嬉しい限りである。

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