庶民感覚

麻生総理が、「庶民感覚」とはかけ離れたホテルなどのクラブで夜な夜な会合を繰り広げているとパッシングを受けているが、そりゃルサンチマンでしかない。

このご時世なのに、という気分も分からなくもないが、かといってジョッキ一杯450円の居酒屋で会合してます、なんてのも、それはそれで充分パフォーマンス臭プンプンだろう。
そりゃ、セレブ中のセレブたる総理総裁としての付き合いもあるだろうし、そういう付き合いを否定してしまっては、廻るものも廻らない局面だってある。セレブ的振る舞いを断つことを仕事に繰り入れるべきとの考えもあろうが、その程度のことに気を遣うよりは、より具体的な政策に気を遣って欲しいもんだ。実際遣ってるからクラブ飲みなんだろうけど。そもそも政治家にそんな下卑たパフォーマンスを期待するべきじゃない。

飲む場の「質」はともかくとして、「量」が多すぎる、との声もある。いいじゃないか。そういう「グレート・コミュニケーター」なのかもしれないし。余計なお世話だ。

とにかく、その程度のルサンチマンを振りまくマスコミのあり方が疑問だし、そのマスコミに「これは振りまく価値がある」と思わせてしまっている我々有権者のレベルも低い。政治家と、官僚とか財界とか利権組織とかの癒着は散々言われてきたけれど、マスコミと有権者の癒着ほど意識されていない、或いは意識したくないものはないのだ。政治に対するマスコミの役割を否定するわけでは全く無いが、マスコミだって充分商売なんだってことを、僕らはしっかりと認識する必要がある。

あなたが営業マンなんだったら良く分かるでしょ。話法だとかツールだとか、言ってみれば顧客に思考させないための要素だ。あなたが、その研鑽に余念がないこと、そういった営業努力によって顧客の思考能力を奪うことに、僕は何の疑念も抱かない。逆にそれに躊躇するような営業マンは、この商売至上/自由経済主義の世において、不正義でさえある。
で、マスコミの顧客は有権者だ。そこまではいいけど、その結果として、マスコミの顧客たる有権者がバカになってしまうことは、民主主義という数の暴力に支配されている僕にとって、それは非常に迷惑だ。僕やあなたがその辺のガキンチョや若者や主婦やおばちゃんや後期高齢者の思考力を鈍らせて幾らか会社に貢献したとしても、その他大勢には殆ど影響が無い。だが、民主主義が敷衍する我が国の政治は別だ。マスコミによってバカに仕立て上げられた有権者の量だけ、日本は傷を負う。

顧客が有権者である、ということに関しては、政治家だってそうであることに変わりはない。

表現として、敢えて過激に書いてしまった。僕も広義の営業マンで、そういった業を背負っている。もちろん日常においては顧客の幸せにいかに僕等が貢献できるかを考えているが、上のような書き方も出来るという事実を厭ってはならないと思うから、そう書いた。青臭いと言えばそうだろう。だけど、ここでは商売至上主義の功罪が問題だ。マスコミは、その性格上、国有であってはならないし、つまりは民として商売の原理をどこまでも引き受けるしかないし、かといって、公としての在り方をあきらめてはならない。もっとも、国は公だが、公の全てが国であるはずは無い。その辺のバランスを取らせるのは、つとに我々の務めだし、そのために我々は、バカであってはならないのである。

「庶民感覚」という居心地のよい場所に安住することが危険なのだ。例えば旧社会党の失敗の原因はそれだ。彼らは「庶民感覚」に加えて「革新」を標榜していたが、「庶民感覚」とは元来「守旧」的なるものであって、「革新」とは、まず己の日常の姿が変わってしまうことを引き受ける態度をこそ、基盤とせねばなるまい。「庶民感覚」と「革新」は、共存し難いはずなのだ。
いまは、どう「革新」するかが問われている時代だけど、だからこそ、マスコミによる商売至上主義の産物である「庶民感覚」の引力から離れて、いかに自らを投企するか、そこが僕等に問われている。

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