9条に対する、とりあえずの見解

ビートたけしが最近色んなところで護憲派であることを表明している。もちろん9条のハナシにおいてだ。自分としては護憲なんだけど、一度国民の意思を公式に確認してみたい、みたいなことを言う。たけしは保守派の、まぁ「論客」、と目されているから、僕みたいないわゆる「サヨク」なんかからすれば、肩透かしを喰らったのは事実だ。

僕は「サヨク」であり、かつ「お笑いBIG3」のファンだから、その辺の多少複雑な感情についてはそのうち書く。

で、ここでは、僕の9条についての見解を書く。

我が日本国憲法第9条は、200年早い。
200年後に9条が誰からもしっくりと感ぜられるようになるかどうかなんて保障のしようは当然ないが、今を生きる我々に対して、「200年後には軍隊を持たなくてもいいような環境が出来るように、今から日本国民は努めましょう」みたいな文言だったならば、今よりはすんなり受け入れられて、むしろそれに、それこそ「誇りを持つ」、なんてことが我々の中にあったかもしれない。
「軍隊はもう持ちません」なんていう「規制」をされるよりは、「持てなくていい環境作りを目指して頑張ろう」と目標設定をしてやるほうが、何となくその気になれる。「今の人」には。
もちろんそれには「国民国家」に取って代わる世界秩序のヴィジョンを打ち立てねばならないのだが、200年後にはいい加減「国民国家」という制度に日本国民じゃなくとも飽きが来るだろ。

こりゃ改憲した方が早いだろ、ってことがなんぼかあることは事実だ。その点あの田母神前空幕長といささかも変わりない。現状、自衛隊がきれいさっぱり無くてもいいような安全保障のあり方などないだろうし、それはやっぱり自衛隊は軍隊なんだよってことだから、「国民国家としての日本」に身を捧げよ、という教育を隅から隅までするのが、軍人としてのマインドを涵養する最も効率的なやりかたであって、本来あるべき自衛隊員のマインド、つまり、「あなたは存在するのかしないのか分かんないような実力行使組織の一員であって、だけどそれには戦後日本としての重要な意味があるのだから、その意味を深く胸に刻んで、いざとなったら死地に飛び込みましょう」なんてのは、さすがに現場ではやってられないに違いない。このご時世、コンプライアンスと業績死守の狭間で悩む僕等だって、同じ文脈の上にいるのかも知れないんだし。

「鼻が利く」ビートたけしは、昨今の新保守派の権威凋落を敏感に察して護憲派発言をしたのかもしれないが、いやいやそうでもない、と、僕は思う。
戦後の情景、というものが、彼の中でムクムクと首をもたげて来たに違いない。「戦後」だって、確かに日本である、というほどに、我々は戦後を歩んできたのだから。

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