千葉県の小学校で、級友に煽られてパンの早食いをした子が窒息死した事件が起きた。
当初、その小学校の校長だったかから早食いは無かったとの説明があり、死亡した児童の父親が憤慨するところをテレビで見たが、その後、学校側からそのような状況があったとの訂正と謝罪があって、その父親は、「学校側はできることはすべてやってくれたと思うし、これ以上追及するつもりはない。真実を知ることができ、心の区切りがついた。誰かに責任があるわけではない
」と言ったそうだ。
いわゆるモンスターペアレント問題がクローズアップされている最中、いや、そうでなくとも、寄る辺のない怒りを自分よりほんのちょっと社会的権威が高い組織なり個人なりにしつこく向け続ける習性が我々の中に抜き難く存在する中で、清清しいといっては不遜に過ぎるし、何と表現したものか本当に分からないのだけれど、とにかくその言葉には、涙が出るほど感銘を受けた。
子が死んだ。殺したのは誰かは、冷静に考えて、特定できない。犯人は、ひたすら「環境」であり「状況」だからだ。「環境」「状況」の中に、それが悪意であると確信できるような悪意はない。そんなとき、とりあえず矛を収めて、何をどうするべきかを沈思しえるかどうか。関係の糸が一人の人間では到底把握し得ないほどに複雑に絡まっていることが「実は」自明の現代において、そうすることが己の矜持を保つ唯一の完全な方法かもしれない。
やや話は逸れる。僕は復讐権なるものは生得権ではないとの立場だが、仮に、その沈思の結果が過激で暴力的なものだったとしても、関係の糸が絶望的なほど複雑に絡まっている場合、抗い様もないこともある。イスラエル周辺の問題は、まさにそれだ。「環境」や「状況」が「歴史」を盾にとってるから、どこまでも「沈思」は沈む。だから、一人の人間として答える術はなく、彼らは「環境」や「状況」に再帰せざるを得ないのだ。
「心の区切りがついた」と、この父親は言った。本当はついているはずもない。三人の子の親として、それは断定できる。だけど、敢えてその言葉を発して、自ら憎悪の糸を断ち切ったこの父親に、最大限の敬意を表したい。
一人の父親として。