投稿者: enjoybeerlife

  • 最強のスケール感

    今年のノーベル賞の話題も一段落したところで、こんな風に思った。

    宇宙の年齢は137億歳で、地球(というか太陽系)は46億歳だそうだ。宇宙が生まれてから現在までの3分の2の時点で地球誕生というわけだが、最強のスケール感を誇る宇宙の割には、イマイチな結果だ。その年齢の比には二ケタ以上のものが欲しい。

    将棋が取り得るあらゆる盤面の総数は、全宇宙に存在する原子の総数(10の80乗)より多いらしい。これはちょっと信じられない。
    例えば、今僕の目の前にあるディスプレイを形成している原子の数って、一体いくつよ。億はあるだろ、下手すると兆いくだろ。これ作ってる三菱電機の工場行ってみろ、これがめちゃくちゃ並んでるわけだよ。僕のこの六畳一間の部屋にある原子の数いくつよ、もうそれだけでケタ数えるのが面倒なほどなはずだ。ま、「将棋が取り得るあらゆる盤面の総数」は、せいぜいそのぐらいだな。僕の感覚でいうと。

    「将棋が取り得るあらゆる盤面の総数」=「六畳一間にある原子の数」
    これ常識。

    ……………って、えーーーーーーーっ!「全宇宙に存在する原子の総数」より多いだってぇーーーーーーっ!
    宇宙さんさぁー、何ぼなんでももうちょっと頑張ろうよ。あんたがその程度でどうすんだよ。それでも宇宙か?常に最強のスケール感を誇ることを宿命付けられた宇宙か?え?どうなんだ?

    …という気にならないだろうか。僕はなる。

  • 若さを羨む

    まあ、些事も些事なのだが。

    僕はいつもカバンに本を忍ばせていて、通勤電車内での楽しみとしている。夜にはカバンから出して枕の友とし、朝の排便の際にはトイレの友とするわけだが、昨日の出勤時に、その本が見つからない。枕やトイレの周りにもない。ただ、そのちょっと前にトイレの友とした記憶はある。
    さあ、これはどういうことかと思案しているうちに、時間も迫ってきたので、とりあえず諦めた。
    今朝、寂しく用を足したあとにその思案を再開したところ、ふと目に入ったのが、数ヶ月前まで使っていたカバン。押入れの辺りに放置していたものだ。もしやと思い中を覗いてみると、本はそこに、あった。

    この経緯において僕に認められる障碍は、二つだ。
    ほんの一寸前の出来事を忘れていること、そして、今使っているカバンがどれか覚束なかったこと。
    前者は今までなかったわけじゃないけど、後者のような経験は初めて。いや、という風に、この二つを切り分けてみたところで、僕の狼狽は収まらない。これらが一遍に起こったものだから、狼狽を通り越して、ほとほと厭になった。

    世の中には経験してみないとその本質が分からないというようなことが無数にあるけど、変な話、老化こそその最たるものではないか。
    若さは確かに羨ましいけど、いざこうなってみると、経験しておいて良かった、その何たるかをを垣間見ることが出来た、さあどうやって備えよう、という気にはなった。

    繰り返すが、それでも若さを羨む気には変わりない。

  • 二重言葉

    定着しつつある二重言葉というのがいくつかあって、最近テレビのアナウンサーやコメンテーターですら、何の気無しに使っているふうだ。
    代表的なのは、「今の現状」と「一番ベスト」あたりか。

    したり顔で、「今の現状から考えると、○○するのが一番ベスト…」とか言われると、少々萎える。

  • チューター、或いは里親

    「NEWS ZERO」を眺めていたら、新卒社員の離職を食い止めるため、「チューター」だとか「里親」だとかいう制度があると。
    なんだそりゃ、と、さらに観ていたら、新卒社員一人一人にその「チューター」「里親」がそれぞれ付いて、兄貴分だったり家族分だったりを演じて、当該の新卒社員の新卒社員的悩みを同情的に解消するんだとか。

    やっぱり違和感を感じるのは、「同情的な解消」が会社のシステムとして行われているということだ。しかも、「里親」制度の方は、上に対して「里親報告」をするのだそうな。言ってみれば、「とん、とん、とんからりんと、隣組」と、そう変わらないワケである。
    逆に考えると、それらの会社はなかなか良く考えたものだ。思想統制のメカニズムを心得ている。実際この層の離職率が低下して一定の成果が出ているとある以上、企業人としての僕は、何かしらそこから学ばざるを得ないことは確かだ。

    が、やっぱりストンと腑に落ちない。システムとして行われる「同情的な解消」に、彼らの瑞々しい生の足掻きが屈してなるものかと。屈してしまってるんだから仕様がないけど、少なくとも、彼らの自覚として、「あぁ、これは思想統制されてしまってるんだな」ぐらいの意識は欲しい。その意識の上で、「俺は思想統制されてしまったので頑張ります」みたいな、ワケ分かんない発言をしてしまうぐらいが調度いい。

    本音の所在、みたいなことに対して、僕はこだわりたい。
    ゲームだと分かっててやってるのと、それとは知らず参画してますというのとでは、少なくとも状況として、前者の方がそのゲームを「俺やめた」といえる可能性がある分、まだマシだと思う。後者はそれをゲームだとすら思ってないから。
    いや、さすがにそんなことないだろ、連中は分かってて乗せられてるよ、だから俺も付き合ってんだよ、ってのは、余りにお人良しだし、それはそれで充分「思想統制」の共犯だ。我々「アラ35」、即ち団塊ジュニアは、それなりに親世代の戦後民主主義なるものを通じて、曰く「国家の欺瞞」みたいなものを絶対悪的にしろ必要悪的にしろ意識に留め措いて来た(と僕は勝手に思ってる)が、彼ら「新卒」どもは、その意識とはぜんっっ全、無縁なのだ。

    ちょっと話が逸れた。
    本音の所在、ということだけど、どうであれ、この「チューター」「里親」ゲームは、これはゲームなんだと気付かれた時点で、その生産性とか存在意義を失う。ゲームは自己を相対化して初めて参加できるものだが、彼ら新卒社員が求めているのは、絶対的救い、つまりは本音の部分に関与されることなはずだからだ。少なくとも当事者である彼らの立場で言えば、本音なるものは企業の制度の内側には所在しない。もっと平たく言うと、ちょっと恥ずかしいのだけれど、「本音」は「人生」の属性だ、ということだ。だから、企業が制度として新卒社員の本音にアクセスしようというのは、お門違いだし、大きなお世話だ。
    もっとも、人生なんてゲームだよ、企業人たるものプレイヤーを演じ切らにゃいかん、と、ややニヒリスティックに現実というものを悟らせるための制度なんだったら、ナシでは無い。むしろ、目的としては然るべきだ。ただ、方法としては、余りに回りくどいし、企業が追求すべき効率化の原則に反していることは明らかだ。

    最近僕の中で「涵養」という安倍元総理的タームが色々と使いやすいのだが、こういった制度を敷く企業の考える「涵養」の程度の低さと、それに乗せられてしまうような新卒者しか輩出し得ない日本国の教育事情のそれとに、柄にも無く憂国してしまう今日この頃である。

  • 韓国海苔

    妻に韓国海苔なるものを紹介してもらった。
    塩気を増した海苔に胡麻油で味付けたものらしいが、これだけで酒のつまみとしての用に足りる。

    今夜はそれだけ。
    備忘録だから、それでいい。

  • 過剰冷房とアンチテーゼ

    暑いのと寒いの、どっちが好き?
    ブログネタ:暑いのと寒いの、どっちが好き?
    参加中

    断然、暑いほうが好き。

    夏場の過剰冷房には、怒りさえおぼえる。
    外と中の気温差に疲れるということもあるけど、それより、夏らしさをきちんと感じる権利を奪われるということに対して、「うううう~、……ぅあ゛ーーーーっ!」となる。
    いかに季節感を大切にして生きるかということは、日本人として、なんていうと口幅ったいが、少なくとも、時間という概念に対してそれを螺旋的に捕らえるセンスを涵養してきた我々としては、生活の上での最重要課題といっていい。
    過剰冷房の氾濫は、すなわち文化の喪失である。

    五感のそれぞれに訴える要素を、夏の暑さは持っている。暑さそのものはもちろん、太陽の輝き、草花の薫り、蟲の鳴き、ビール。冬は、それに対する引き算で成り立っている。引き算は日本文化の特質だけど、夏という基準があるからこその冬の美だ。
    より寒い地域のそれと比較すると良く分かるはずだ。そこの住人の冬は慢性化していて、夏に基準を置くべくも無い。僕は北海道育ちだから、「内地」の夏の色濃さや鮮やかさに、ある意味ジャパネスクを感じてしまう。
    侘びだとか寂びだとかには、四季のコントラストが一つの、しかし重要な要素として埋め込まれてるはずだけれど、そのコントラストの軸ははやっぱり夏で、夏に対するアンチテーゼこそが侘び寂びだったりもするのかもしれない。
    またまたいい加減なことを良く知りもせずに偉そうに書いてしまったが、そこそこそんなもんじゃないかとも思う。

    くそ暑い昼下がりの自室で、横になって黒ビールを嚥下しつつ、質の良いボサノヴァを聴きながら迎えるまどろみ。日本文化とは何の関係も無いけど、僕の一年の計の中に無くてはならないシチュエーションだ。

    似てるけど全然違う議論で、焼け死ぬのと凍え死ぬのだったらどっちがマシ?というのがあるが、この場合は凍え死ぬのを選ぶ。その辺の乖離というか矛盾については、今のところ偉そうに書ける何をも持ってはいない。

  • ≪BON JOVI 曲解説シリーズ≫ 08-05 ~ All About Lovin' You

    『BOUNCE』所収。

    イントロが、コード進行、打ち込み風なサウンドのドラム、鼻つまみトーンのギターメロなど、B’zの松本孝弘のソロアルバム『WANNA GO HOME』にある「Air Port」というインストにそっくり。ちなみにキーも一緒。

    歌が入ると、途端に「Never Say Goodbye」(『SLIPPERY WHEN WET』)の焼き直しとなる。例えばサビなどは、サビ頭から実に5小節半も「Never~」と同じコード進行で、メロすらも危うく同じになりかけるのが何とも笑える。こういった「セルフカバー」ならぬ「セルフパクり」は、BON JOVI というバンドの一つの特質だろう。伊藤政則なんかは『NEW JERSEY』のライナーで、BON JOVI をビートルズやレッド・ツェッペリンに比肩せしめたが、むしろその体質はストーンズに近いのではないか。偉大なるマンネリというヤツである。

    僅かにBメロとソロ前の展開部が垢抜けているが、ここはどうも外部共作者(デズモンド・チャイルド又はアンドレアス・カールソン)の手によるもののように思える。

  • らっきょと弘前

    あなたの好きな街は?
    ブログネタ:あなたの好きな街は?
    参加中

    青春時代の本質は、「だって、らっきょが転がるんですもの! 」であるはずだし、であるべきだ。中学や高校を卒業するとなって、どの学校、就職先、プー太郎としての生き方を選択しようとも、それでも地球は回るし、らっきょは転がるのだ。教育に携わる身として、「先生、ここで学べて本当に良かったです!」と、送り出した卒業生の数ほどに言われて来たけれど、「それはここで青春を過ごしたわけだから、当たり前だ」と、その度に突き放したい衝動にかられ、それに耐えてきた。
    僕だってそうなんだと思う。弘前という街で過ごした大学時代、並べ立てれば、そこで得た思い出、経験、人脈、恋愛、酒の味と吐瀉物の味、そして、弘前の町並み、臭い、空の高さ、人の温もり、日が照る時の色の鮮やかさ、雨の時の草花の薫風、そういった要素全てが、絶対的といえるほどの価値を、20年近くたった今も僕へ供給し続けていることに、転がるらっきょの効能を想う。

    そりゃ書こうと思えばアメブロのサーバをパンクさせるほどネタはあるが(そりゃさすがにない)、そのうち3つだけ書きたい。

    弘前と言えば弘前城の桜だろうが、ゴールデンウィークの時期に調度良い咲き方をする桜が弘前の桜なだけであって、仮にゴールデンウィークなるものが日本になければ、あれだけの数の桜の木が弘前城に植えられることも無かったろう。
    僕は大学の一時期を学生の自治寮で暮らしていたから、やたらと酒を飲まされる観桜会があったりとかで、何となく弘前城の桜に、戦前戦中の書生風学生やバンカラ学生、日の丸を背負って動員された学生を重ね合わせ、へべれけになりながらも歴史の堆積を勝手に感じたりもしていたのが、戦前戦中にゴールデンウィークは無い。
    あるときそのことにハタと気付いて、なんだか寂しい気持ちになったが、と同時に、戦後の復興にあたる弘前市民のしたたかさも想った。

    青森市のとあるライブバーへ定期的に出演することになって、そんな日の帰り、適当にメンバーでぶらぶらして夕方ごろに弘前へ戻ることになった。車に乗っけられて、両脇に秋の田んぼが広がるその道すがら、津軽平野一面に夕日が射し、稲穂がキラキラと金色に輝きだした。すると、見る間にそれは周囲に伝播し、北海道の東の果てで育った僕がかつて遭遇したこともない、圧倒的な景色が、一瞬にして現れたのだ。まさに、王蟲による「金色の絨毯」も斯くやといった調子で、しかも、津軽富士こと岩木山が、その後景にどっしりと収まっていたものだから、神々しささえ感じた。一種の宗教体験といっていい。
    あとになって司馬遼太郎が津軽地方を「北のまほろば」と呼んだことを知ったが、あの景色を思い返すにつれ、その言い得て妙なるところを、しみじみと想うのである。

    妻とは、あのとき弘前で出会った。妻はどうか知らないが、妻を想うたびに弘前を想う。彼女もまた、僕にとっては、「北のまほろば」だ。
    今現在僕は単身赴任の身だが、その内やっぱり家族で弘前に住みたい。そして、早朝か夕方かに、毎日妻と一緒に弘前城の周囲をランニングすることにしよう。
    3つ目のネタは、それだけだ。

    桜の季節でなくとも、四季それぞれに味わいのある街だから、思い立った時にぜひ一度お越しいただきたい。

  • 政局予測(仮)

    「週間文春」に、次期衆院選の各党の獲得議席予測が載っていて、民主党が過半数を占め、自民党は百十数議席に留まるとあった。
    今やその可能性は殆ど潰えたが、仮に今月解散来月総選挙となったとしても、ちょっと有り得ないんじゃないかと思う。

    で、万が一そういうケースになった場合の予測だが、とりあえず、民主、自民共に二百そこそこで拮抗、公明と、必要ならあとちょいちょいを巻き込んだ自民が、第二次麻生内閣を形成、そして、大方の予測に反して与党をキープ出来たわけだから、党内基盤は強固になり(細田幹事長の勝敗ラインどおり)、無難な運営を保ち続け得れば、少なくとも安倍・福田両元総理の在任日数を超えられるだろう。

    民主党は随分いい所まで迫ってると思うし、予算委員会にクローザーとして長妻昭に登板させたのも面白い。が、こんなにまでなってしまった自民党は、それでも、身体性というか生存本能というか、そういう部分に基づく何かしらに関して、まだまだ民主党のそれを凌駕している。
    そのことを最も理解しているのは、他でもない、小沢民主党代表だ。

    民主党対自民党の構図ではない。民主党と、自民党麻生シンパ、(古賀誠に代表される)自民党反麻生シンパ、三つ巴の駆け引きだ。麻生には、小泉の「郵政解散」と同じ手法を選択する手もある。要は、それと、公明党の重さを天秤にかけて、その上で決断すれば良い。

  • ビートたけしのオーソリティ

    以前、「ほぼ日」でのビートたけしに対する糸井重里のタメ口について書いたが、最近のそれは、どうも「ですます調」が多い。

    たけしに相対すると、そうなってしまう人物は少なからず存在する。そりゃ今や日本の映画界を代表する監督の一人だから、というのもあるだろうけど、それほどでもなかった10年ほど前、かの志村けんと、「神出鬼没!タケシムケン」なるバラエティ番組をやっていた。
    「8時だョ!全員集合」と「オレたちひょうきん族」の因縁の視聴率競争を覚えている者には興味尽きない企画だった。当初、志村はたけしを「たけちゃん」と呼び、口調もタメ口だったが、回を重ねるごとに「たけしさん」に「ですます調」となっていった。「たけしさん」と呼ぶ時は、テレのためかやや早口だったのを覚えている。
    その意味するところは、志村がたけしの軍門に下った、ということだ。

    たけしは80年代の中頃にお笑い界の頂点に君臨し、それに飽き足らず、映画界と論壇にも触手を伸ばそうとした。その布石がフライデー襲撃事件である。これは、さらなる高みへ到達するための箔付けとするべく仕組まれたもので、決して衝動的な行動ではない。以来、その圧倒的なオーソリティを武器に、前人未到のポジションを手に入れるのである。
    そのたけしが、自らのルーツであるお笑いの世界において、たった一つだけ制覇し「忘れて」いた城があった。志村けんのそれである。バイク事故からの復帰後、たけしは思い出したかのように「タケシムケン」でお笑いを再開しだしたが、これは「思い出したかのように」ではなく、文字通り「思い出した」のである。唯一志村だけを潰していなかったことを。
    「タケシムケン」の話が出た時、志村は辟易したはずだ。しかし真っ向勝負の道を選んだ。その勝負は、決してお笑いそのものの勝負ではない。己の権威を認めさせるという、実に子供じみた勝負だった。結果は、たけしの圧勝だった。
    勝利をモノにしたたけしは興味を失い、番組はあっという間にクォリティを落とし、そして、打ち切りとなった。
    たけしは、大体そんな風にして、のし上がって来たのである。

    佐高信並みの「たけし悪人史観」で解釈すると、以上のようになる。
    この史観の信憑性は低いけれど、ゼロではない。
    ま、要は、お笑いBIG3が好きな僕にとって、そんなあれこれを想像しながら彼らを眺めているのが楽しい、というだけだ。
    我ながら悪趣味だとは思うけれど。