投稿者: enjoybeerlife

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.009 7頭のトナカイ

    明らかに45°ではない、最初のコマの秋の日ざしではあるが、愛すべき小品、といえる一作。

    晩秋~初冬をそこかしこに詠み込んでいて、この季節独特の雰囲気をよく味わえる。確かに、MJQ、ミルト・ジャクソンのヴァイブが似合う季節だ。

    主人公のカップルが、地に足の付いた付き合いをしているだろうことが読み取れて、安心して彼らの微笑ましいやり取りを眺めていられる。前髪サラサラのみさ子と、いつまでもお幸せに。
    トナカイのセーター、今でもよく見かけるが、このトナカイそのものに注目して、「ボクは7頭のトナカイたちに初めて出会った」「8頭目のトナカイは…ひかえめに居る」などと、あたかも生きているかのように扱う、わたせ氏ならではの目線が、秀逸である。

    ところで、3ページ目で、別のカップルがピザとジンジャーエールを注文しているコマがあるが、このコマに関していくつか。
    いつものノリであれば「ピッツァ」とやるところであるが、どうしたわけか、普通に「ピザ」となっている。何か意図があるのか、忘れてただけか。
    背中にお揃いの太極図のロゴ。このロゴ、確かに昔よく見た記憶がある。はて何というブランドだったか。図にはブランド名も配されているのだが、小さすぎて判別しかねる。最近はサーファーのブランドで太極図を用いたものがあるそうだが、それではない。ここにあるように、陰陽が横になっていて、黄と黒のものなのだが。どなたかご存知ないだろうか。
    このコマが生む間が、主人公の方のカップルの微妙な心理描写になっているのだが、残念ながらアニメの方では欠落している。太極図のロゴの権利問題故か。

    けい子…2
    みさ子…2

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.008 彼女の名前

    みさ子のデビュー作にして、シリーズ序盤最大の問題作。

    問題なのは、主人公の男である。雑居ビルの別の会社に勤める名も知らぬ女に、密かに恋心を抱く主人公、偶然一緒になったエレベーターを出る彼女を、扉を閉めることも忘れ、呆然と見送る。
    そこまでは良いのだが、何とこの男、勝手に女に名を付けることにしてしまった。妄想の中で彼女を呼ぶのに、名が必要なのである。
    小生も大の妄想家だが、さすがにそこまではない。名も知らぬ女性について妄想するのは、例えば通勤列車の同じ車両にたまたまキレイなお姉様がいるときなど、その場限りのケースに限られるからである。彼のような情況ならば、名前をちゃんと確認してからでないと、逆に妄想を楽しめないはずだ。対象までの近さと、妄想に必要な情報量は比例するのである。妄想歴30年の小生に言わせると。

    さて、いざ名前を決める段になって、何と彼はわざわざワープロを使用する。頭のなかで決めればいいものを、である。しかも、恐らくこれ、会社の備品である。83年当時、業務用の日本語ワープロなんていうと余裕で100万円以上するシロモノだったから、今どきで言えば、会社の5万円のビジネスPCでエロ画像検索してる方が、まだ健全というものじゃないか。
    で、出てきた名前が、美砂子、である。いかにもイイ女風の名ではあるが、100万円のワープロ使っただけのパンチに欠けるのは残念だ。

    その後男は、何度か彼女とすれ違ったりするのだが、その度に妄想で「美砂子」語りかける。
    最後のページで、会社の先輩から、彼女の名が「清水カオル」であり、「プレイガール」で有名なことを告げられ(主人公の名はワタナベであることも明かされる)、それに対するワタナベの返答で幕となる。

    「じゃ先輩 人ちがいです」
    「先輩 ボクのカノジョの名前は美砂子って云うんです」

    ギリギリのラインで作者わたせせいぞう氏の意図は何とか伝わるが、それに反して、ついに現実と妄想の区別がつかなくなった男、ここに新たなストーカー誕生す、的な解釈の方が容易であることが、この回を極めて奇妙なものにしている。

    漫画では、主人公には若干コミカルなテイストが付加されていて、 男の異常性がやや薄れ、ちょっとヘンなヤツ、程度にも見えなくもない。だが、アニメとなるとどうだろう、あくまで二枚目で描かれているため、危険さが強調される結果となっている。ぜひご覧あれ。

    けい子…2
    みさ子…1

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.007 オールドハワイ・コナ

    小生は、このようなシチュエーションを経験したこともなければ、コーヒーを飲む習慣もないので、当回からは特に何の感慨も浮かばないのであるが、ただひとつ、3ページ目の2段目のコマに、画の味わいを感じる。明らかにデッサンが不味く、人物の四肢のバランスやボリューム、角度が不自然だが、だからこその不思議な魅力、アンバランスが喚起する注意、みたいのがある気がする。例えばクリムトの「接吻」なんかもそうだ。いや、美術に詳しいわけでもなんでもないのだが。

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.006 コスモス アベニュー

    「ハートカクテル」連載開始当初は、1983年である。70年代と80年代の間には「神田川」と「Get Wild」ぐらいの隔絶があるが、80年代に70年代の残滓がひょっこり顔を出す、ということが以外にあって、それが80年代の面白さだと、小生は勝手に思っている。
    当回における男女には、80年代のポップ性やら洗練性やらを代表する漫画としての「ハートカクテル」には似つかわしくないほど、それらが無くて、むしろ「神田川」がハマるぐらい、生活臭がにじみ出ている。特に、女の部屋の地味さといったら、せいぜい逆さに吊るしたドライフラワーがかろうじて彩りを保っている程度である。外人が描いた間違ったカタカナみたいなのを意匠とする暖簾なんかは、そんなのが親戚のウチにもあった気がするほど、現実染みている。

    F市は福岡市、K市は北九州市だろう。わたせせいぞう市の故郷辺りの物語である。

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.005 ネコ

    男とネコ、一人と一匹による密室劇。絶妙な会話のテンポが、居心地の良い佇まいを醸し出している。
    が、「だけどおならはかんべんだぜ」「うん出来るだけがまんするよ」のくだりは、台無しである。「おなら」に加えて「だぜ」は無い。ネコもネコで、それに対して「がまんする」旨を伝える義理はないだろう。しかも、「出来るだけ」ってなんだ。

    結びにいたる男の心変わりのきっかけが、女が発注していた、主婦の友社の「ふたりの部屋」なる雑誌のバックナンバーである。「ハートカクテル」の出版元である講談社が、他社の雑誌を出すことを結果としてOKしたことになるが、一体どういう経緯だろう。当時わたせ氏はサラリーマンと二束のわらじだったらしく、その意味で出版業界のしがらみには頓着しなくて良い立場だったかも知れない。そこでもって担当者が、我が社としては何としても手元に置いておきたい新進気鋭の逸材故、他社の名が出るのも何卒お目こぼしを、などと上司に掛け合った、などという、そんなエピソードを勝手に想像してみる。
    ちなみにこの「ふたりの部屋」、現在は「PLUS1 Living」と名を変えて、絶賛発行中のようである。

    サンジェルマンのスイートポテト、Coors、観葉植物、市販のキャットフードで飼われるネコ、主婦の友社「ふたりの部屋」、と、当時のプチブル独身貴族のステータスを満たすであろう記号に溢れている。

    それにしても、最後のページの2段目、男の心変わりの経過が恐ろしく良く描けている。間、というのは、こういうことなのだと思う。変化らしい変化といえば、男の眉がほんの少し八の字に垂れるだけなのだけれど、この男、役者だとしたら相当な演技派と見た。

    どうもこのコンビ、6年後の「ハートカクテル」連載終了間際に、もう一度顔を出しているようだ。vol.243にて彼らがどうなったのか、楽しみにお待ち願いたい。

    女の名は、「渡辺美○…」というらしい。さては「みさ子」か?

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.004 グリーンの軌跡

    まさにピーカンの夏、前回も述べたとおり、絵に後年ほどの完成度はないものの、むせっ返るような夏草の薫りが伝わってくるような、見事な描写。「ハートカクテル」初期の色使いは、割と彩度が低めな気がするのだけど、ここで使われている緑は、鮮やかの一語に尽きる。

    主人公の男、クライアントに「君の仕事は評判いいんですヨ」と言わせているが、仕事のプロセスに問題ありと言わねばなるまい。大体ラストシーンに至っては、誰がどう見てもサボりである。まぁ、小生とてこの年になってもハートが小休止したくなることだってあるわけだが。

    そのラストシーン、ハート型に刈り残された芝生が印象的だが、わたせ氏が東日本大震災を受けて制作したという最近のイラスト、「TOMORROWの色」でも同じモチーフが導入されている。

    女の名は、「加藤慶子」である。やけに生々しい。

    けい子…2
    みさ子…0

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.003 一枚の愛(a sheet of love)

    鈴木英人ではないが、わたせ氏が得意とするロケーションといえば、「ピーカン」の海辺、である。3作目にして早くも登場、であるが、実際この時点ではまだ絵が熟れていない。こう言っては失礼だろうが、作画の技量が固まってくるのは、vol.100ぐらいからだろうか。

    ポストカード、ではない。カァド、である。「ルーム」、「エアポート」と、わざわざ横文字を使う。今となってはギャグでしかないこの手の男、83年当時、実際モテたかどうかは定かではない。

    女の名を、けい子、というらしい。その後登場する女性に名がある場合、それは、「けい子」か「みさ子」である場合がほとんどである。作者自身の恋愛にまつわる名かどうかは知る由もないが、どちらも「子」がつく名であることに時代を感じる。
    とりあえず、「けい子」と「みさ子」が登場した数を、無意味にカウントしておくことにする。

    けい子…1
    みさ子…0

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.002 ジェシイの店

    日系2世の口髭のマスターがやってるバー、「ジェシイの店」である。店の片隅にはアップライトピアノがあって、マスターが気が向いたときに弾いてくれるらしい。
    この店で出しているピザだが、小生が大学時代にバイトしていたカクテルバーで出していたピザも評判が良くて、ちょうど2ページ目にあるように、よく箱詰めのテイクアウトで出していたのを思い出す。

    マスターのジェシイが弾くBGMとして、ジャズ・スタンダードの「サマータイム」、カーメン・マクレエ「もう泣かないで」、ジョージ・ベンソン「これが愛なの?」の3曲が指定されている。ベンソンは小生が最も尊敬するギタリストの一人だが、この、さして有名でもない、渋好みと言える一曲をチョイスするところに、作者の通振りが伺える。
    アニメ版ではこの3曲が流れるかと思いきや、例の如く松岡直也のラテン調フュージョンが流れるばかりで、一切言及がないのはやや寂しい。

    アパートを、いちいち「アパートメント」と表記するなどは、以後お約束となる。田中康夫「なんとなく、クリスタル」の流れを汲む回りくどさと言えようか。

    2コマ目に,「ジェシイの店」のネオンの看板が、「ジージー」と音を立てて光っているが、「Jessy’s CAFF」となってるのは、「CAFE」の「E」の下の棒が故障で光ってないという表現では決してなく、カフェの略表記として「CAFF」というのもあるということだそうだ。知らなかった。

  • 「ハートカクテル」考 ~ vol.001 バラホテル

    初回にして名作の誉れ高い当回。
    わたせせいぞう氏ご本人の体験に基づくというから、その点でも氏がこの初回に寄せた並々ならぬ想いが知れよう。
    さらに、初回、ということで言えば、決してハッピーエンドではないことにも注目したい。これは、この「ハートカクテル」というシリーズの通奏低音はペーソスである、という宣言にも思える。決して能天気なプチブル漫画ではないのである。

  • 「ハートカクテル」考 ~ 序

    永のご無沙汰である。

    政局ウォッチャーを自認して、あの2009年の衆院選を華麗に予測するつもりだったが、見事に外れたため、すっかりモチベーションを挫かれ、当ブログの放置に至った次第。そんな訳だから、逆に、ブログ向けの主題さえあれば、容易に再開できるわけだが、先月ついにそれを発見してしまったのである。

    ことあるたびに申し述べてきたが、小生は80年代ノスタルジーを強く抱いている。当時の映画や音楽はもちろん、思想や文学、はたまた当時のパソコン(いわゆるレトロPC)に至るまで、あらゆるモノ/コトに、モノノアハレというかイトヲカシというかを感じるのである。それこそ政局だって中曽根政権下のソレにもっとも興味がわく。

    先月の始め、職場近くのデパートの催事場で、「わたせせいぞう展」をやっていた。震災復興支援の名目らしい。仕事の休憩中にふらっと立ち寄った(その日初めてその催事場の存在を知ったのだが)。これぞバブリー80年代の象徴ともいうべき絵がパネルを埋めつくしていたが、そのときの第一印象について申し述べるなら、小生の80年代に対する想いの変遷を語らねばならない。

    小生がもっとも「多感」だったのは、大学時代であろう。バブル崩壊からそれほど間がない頃、いわゆる失われた10年(20年)の始まりで、先行きが怪しい分、華やかなりし80年代に対する否定と未練がない交ぜになったような空気がぼんやりと存在していた気がする。
    小生は、いわゆる当時のHR/HM(特にBON JOVIなどのメロディアスなやつ)好きのミーハーだったのが、大学時代に出会ったよりディープなロックマニア達によって、やれNIRVANAだの、LENNY KRAVITZだのの、80年代的なウェット感を否定する、90年代初期のムーヴメントにすっかり乗せられてしまった(BON JOVIに対する愛と忠誠だけは、今に至るまで欠かしたことはないが)。特に目の敵としていたのは、いわゆるジャパフュー、つまり、カジオペアやT-SQUAREなどの和製フュージョンだ。つまりは「何だこのハイソなプチブル音楽は!」と、連合赤軍のごとき革命精神に燃えていたのである。そのうち、音楽的によりラディカルなのはジャズではないかと思うに至り、バンドでギターをやっていたからテクニック習得のために渡辺香津美やら野呂一生らジャパフューのギタリスト達のプレイをコピーするようになるのだが、それが大体大学3年ぐらいである。我ながら随分お粗末な革命精神だとは思う。
    それでも80年代否定が完全に溶けたわけではない。人間歳を重ねるとノスタルジー成分が増してくるのは自然の理と思うが、それと相まって、ようやく「やっぱ初期の松田聖子は凄いよね」みたいな境地に辿り着くのである。

    なんというか、80年代的なるものを一つ一つ意識しつつほどいていったような感じなのだが、つい先月までほどけていなかった80年代が、「わたせせいぞう」であったのだろう。

    だから、件の催事場に足を踏み入れた瞬間に想起されたのは、「なんだこのハイソなプチブルな絵は!」だったのである。大体、わたせせいぞう氏の名前すら知らない有り様だ。即座にその場を立ち去っても良かったのだが、今思うとすでにほんのりノスタルジーを感じ始めていたらしく、一歩二歩と歩みを進めてしまっていた。
    いくつかの「4ページのファンタジー」の原画が展示されていた。それがどれとどれかは後々明かすことにするが、不覚にも、いや、ちょっといいね、これ、と思い始めるのに、そう時間はかからず、奥の方にあった氏の漫画の単行本をパラパラとめくって観るにつけ、ほんのり目頭が熱くなっているのを覚えるに至るのだった。
    その日はすぐに休憩時間が終わりを告げ、タイムアップとなったのだが、職場への帰路は、まるで、手強い敵に追い詰められ、危うくゴングに救われたボクサーの気分だったといっていい。

    その日のそれからは、妙に落ち着かない雰囲気に支配され、仕様がないから数日後の展覧会最終日に再度足を踏み入れた小生は、レトロPCやら松田聖子やら中曽根政権やらに続き、またもや80年代ダークサイドに堕ちたことを悟ったのだ。

    その後、わたせせいぞう氏のあれやこれやをネットで探り、氏の代表作が「ハートカクテル」なるものであることを知った。漫画のDL販売サイトの立ち読みで、読める限り読んでみたのだが、買えよ、という心のツッコミにも耐えつつだが、あぁ、これは見事に80年代であると。youtubeにもアニメ版があって、これもいい。80年代臭がプンプンする。何よりBGMがジャパフューである。登場人物の男がやたらと「やれやれ」と宣うのが、完全にツボだった。しかし、どうも展覧会での感動はない。あそこで読んだのはどうやら別の作品だったようだ。

    氏の作品において、「ハートカクテル」及びその延長線上にある一話完結の作品群と、「菜」を始めとする続きもの(?)は、ちょっとスタンスが違う。前者が、「さらりとオシャレな大人のファンタジー」なのに対し、後者は、「時に重くもある、比較的リアルな人情モノ」、と言えるかもしれない。いや、もちろん一概にそう言い切れるわけではなく、前者だってあるある的リアリティに溢れている場合もあれば、後者の登場人物が充分ファンタジックな場合もある。氏の作品を全て網羅したわけではないから、尚更断定は出来ないのだが、小生のなかでの分類ではこうなります、というはなし。
    で、氏は、「ハートカクテルの人」みたいに世間的にはなってるんだろうけど、後者を描けるからそ前者が引き立つ、という面は押さえておきたい。何だか偉そうな物言いだが。

    話を最初に戻そう。小生が当ブログを再開するきっかけとは、他ならぬ、わたせせいぞう氏の作品である。どうだろう、「ハートカクテル」の一つ一つについて書いてみるというのは。
    80年代へのリスペクトとして、なかなか興味深いテーマだと思うのだが。

    やれやれ。

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