投稿者: enjoybeerlife

  • みんなの党

    意外と政党のネーミングは難しい。「民主」「自由」「社会」「共産」といった定番はすでに使われているし、「労働」「保守」なんてのも今どき流行らない。「改進」「新進」「協同」「国民」「進歩」なんて鹿爪らしいのもひねり出してはみたが、意味があるんだか無いんだか。
    果ては、「太陽党」なんてのもあった。ツトムちゃんだが。

    だからと言って「みんなの党」はないだろう。英語名は「Your Party」。エルトン・ジョンか。

    渡辺喜美、江田憲司の両氏には期待している。民主党離脱はよく理由も分からないし、残念なことだけど、浅尾慶一郎氏もなかなかやると聞いている。行政改革、脱官僚主義の主張は民主党と丸被りだが、どう独自性を発揮するつもりなのか、その辺を見て行きたい。

  • 自民党のCM

    たった今、自民党のテレビCMを見た。「政権交代」という文字を、ナレーションと共に「政策実行」に訂正していくヤツである。装飾的な要素が(BGMすらも)全く無く、珍妙なほどに、シンプルと言おうか、味も素っ気も無いと言おうか、とにかくそんなCMだ。一種のモダニズムか。過剰なモダニズムには何か病的なものを感じることがあるが、このCMもそうだ。クライアントたる自民党のイメージアップに繋がるとは、とても思えない。
    不人気の党総裁をキャラクターとして使えない事情も分かるが、さすがにこれは無かろう。反麻生派の大いなる皮肉ではないか、などと、穿ってしまう。

  • ツトムちゃん、引退

    派閥抗争華やかなりし頃を知る現職国会議員は、果たしてどれほどいるか。自民党では、海部、河野、森、小泉、加藤、山崎あたり、民主党は、小沢一郎をはじめ、渡部恒三、羽田孜の、「華の69年組」がひしめいている。竹下派七奉行が民主党にしか残ってないってのも、森~福田の清和会王朝とか、平成角福戦争とかを裏付ける。

    で、その一角が、この選挙による任期を最後に政界を引退する旨示唆したとのこと。
    羽田孜元首相である。
    なんかこの人は好きだった。ツトムちゃん。
    政権発足当時、トレードマークの袖を切ったスーツ姿で、「ニュースステーション」に出演していたのを思い出す。現職総理が一情報番組に出るなんてことが嘗てあったろうか。きちんと調べたわけではないが、実際なかったろうし、それ以降も無かったはずだ。田原総一郎の政治がテーマの番組ですら、自民党から出演するのはせいぜい幹事長である。なんとも、いい意味で気安い総理だなと思った。その気安さまで降りてくるにはエネルギーが必要なんで、それをやったツトムちゃんには行動力を感じた。現場をつぶさに見て廻って、そこに働く社員と分け隔てなく気軽にコミュニケーションをとる新社長みたいなイメージだ。
    しかし残念ながら、日本の政治史に殆ど何も残さないまま、あっという間に総辞職してしまった。残したことといえば、戦後二番目の短命政権、ということだけだ。
    ウィキペディアによると、田中真紀子に「多弁にして空疎」とバカにされたとか、「~というふうに」「アレする」「真正面から」「率直にいって」などのフレーズを多用し「羽田語」と揶揄されたとか書かれてるが、そんなのもむしろ愛らしい。
    農水大臣を2度務めた。生産者の苦衷を斟酌しながらもコメ自由化を訴えるツトムちゃん。大蔵相や通産相といったエリート臭いポジションではなく、庶民的な農水相でありつつも、先進的・国際的視点を貫く姿勢がこの人らしい。自らが中選挙区制の申し子でもあろうが、小選挙区制を主張したのもそうだ。
    ちょっと前にテレビニュースにチラッと出てた。よく覚えてないけど、民主党内のゴタゴタを同党最高顧問として仲裁したそうだ。すっかり白髪が多くなり、確か杖をついていた。残念だった。

    ツトムちゃんに関して書きたいことは以上だ。
    海部俊樹も好きだ。トシちゃんへの愛は、また今度書こう。

  • 全国知事会、民主党、小泉純一郎的パラノイア

    全国知事会の立場では、自・民両党のマニフェストを比較すると、どうも自民党に軍配があがるようである。東国原・橋本両知事の登場で、にわかに注目を集める同会だが、逆に言うと、両知事の登場なくして注目はなかったろう。
    それはさておき、民主党、というか鳩山代表のビビりっぷりは過剰である。メリット、デメリット、いろいろあるだろうけど、確かに地方分権は世の流れだし、今まで財源が「不当に」国側に偏っていたという主張も、確かにそうだろうと思う。しかし、知事会の主張に一定の理があるとしても、国政を与らんとする民主党の党首がビビっちゃいけない。いや、地方自治体より国のほうが偉い、とか、そういうことではなくて、なんでもかんでもいちいち気にしてちゃ、そもそも国政なんて(県政だってそうだが)やってらんない、ということである。同会なんて本来、その「なんでもかんでも」の一つに過ぎないはずなんで、いや、だから、偉い偉くないじゃなくて、そもそも、地方分権問題が喫緊の課題か、と問われれば、我々はNOを言わざる得ない現状なんで、気にし過ぎるだけ損なのである。
    そこは今回の争点じゃないはずだ。あくまで表向き(政策レベル)は社会保障とか経済・財政、ホント(政局レベル)は政権交代、ってのが構図である。だから、鳩山氏はそんなトコで自らの威信を貶めてはならない。堂々と、「予算の組み替えさえすればここしばらくは大還元セールが可能ですよ、しがらみのない僕らだからそれをやれますよ」、「自民党の連中にやらせてる以上、組み替えも何も、予算の垂れ流しをし続けるだけですよ」みたいな主張で勝負し、片一方で「政権交代すること、そのこと自体に、国民皆さんのメリットがありますよ」という事実をほのめかす、という基本戦術を徹底さえすれば勝てる話だろう。
    鳩山民主党に必要なのは、一点突破主義、すなわち、小泉純一郎的パラノイアなのではないだろうか。四年前は郵政民営化で、今回は上記の如しなだけである。上手に劇場型選挙を演出できるなら勝ったようなものだと思うのだけれど、その気配とか気負いが、どうも希薄な点が、どうも不安である。

  • 「ヒールヒーロー」麻生の消費税議論

    前にも書いたが、消費税引き上げ議論は既にタブーではない。プライマリーバランスを正常化し、尚且つ国の借金を返す目処も立てなければならず、何らかの増税をせねば財政は破綻するということは誰でも理解している。「こんな状況を招いたのは政治家だから、政治家が自腹切って何とかしろ」とか言って、選挙に行かない己の非に気付かない連中もかつてはいたが(「政治不信」家の正体はコレである)、最近はさすがに見なくなった。国の行く末なんてどうでも良くて、ひたすら目先の得ばかり追求する「愛すべき」輩も、どうやらそんな生き方を諦めたようだ。国家の持つ強烈な「一蓮托生」力を、日本国民が思い起こさざるを得なくなった証左だろう。良くも悪くも。

    民主党に引きずられて、自民党も「甘い」マニフェストにせざるを得なかったようだ(もっとも、「甘さ」の根拠、即ち財源捻出のための手法は随分違うようではあるが)。ランチェスターの法則によると、「強者は、多くの弱者がそれぞれに試した手法のうち、成功したものを吸い上げることによって、リスクを避けるべき」だが、「弱者は、徹底して他との差別化を図るべき」だそうだ。自民党は、すでに「強者」ではない。その座を民主党に譲ってしまった、というわけではないにしろ、「強者」の風格が既に似つかわしくないところまで来ている。とすると、麻生総裁が標榜する「責任政党」なる語は「他との差別化を図る」上で悪くないし、だからこそ、むしろ堂々と「辛い」マニフェストを提示しても良かったのではないか。一種の「ヒールヒーロー」化である。そのための争点、というか、ツールとして、消費税引き上げ議論は絶好のネタになり得るはずだ。

    麻生は実は結構前からそのことを言っていて、それを内閣だの自民党執行部だのがハラを決めて飲み込まない状態がずるずる続いている。麻生自身の問題もあるけど、連中も良くない。もう少し麻生のやり易いようにさせてはどうか。自民党の人たちは。
    少なくとも麻生の面構えは、充分「ヒール」のそれである。

  • 鳩山由紀夫と「開き直り」

    鳩山民主党代表の「27日に出したのは正式なマニフェストではない」発言にはがっくりである。先日の安保転換もそうだが、政権を目の前にしてビビってる感がアリアリで、どうにも頼り無い。この辺りは自民党の格好の攻撃の材料となるし、その効果がすでに出始めている。
    今は政権奪取こそが至上命題であり、この機を逃せば、つまり自民党政権が延命すれば、自民党はその余勢を駆って来年の参院選で再び参院における優位を取り戻す。自民の完勝である。ここまで期待させといて結局なんにもできなかった民主党は、当然国民から愛想をつかされ、自ら崩壊するだろう。そうなると、「政権交代の起こらない民主国家」という倦み切った状態が、その後さらにしばらく続くこととなる。これはいかにもマズい。
    今この日本で政権交代が起こるということの本来の妙味は、長期政権と官僚組織の癒着による既得権益の打破であり、そのことこそが一番大切なことだ。極言すれば、より良い政策を実行することより、政権交代することが重要なのである。仮に多少自民党のマニフェストの方が優れていたとして、そのまま自民党に政権を任せている方がお高くつく。マニフェストの良し悪しや実現可能性に正直であることにこだわって、肝心の政権交代が果たせないようでは、全く政治の名に値しない。ここはすっかり開き直って、いささかもブレを見せないのが上策である。いいじゃないか、政権獲ったあとから「すいません、この件はやっぱ無理でした」となっても。どうせ官僚からは与党の幾ばくも情報も与えられていないだろうから、所詮完璧なマニフェストをずーっと野党だった民主党に期待する方が無茶というものである。長妻昭氏の言うように、「全省庁の金庫をひっくり返」してから最終的なマニフェストを提示したっていい。

    鳩山由紀夫という人はあんまりいい人過ぎて、「開き直り」という、政治家として必須の芸当が出来ないんじゃないか。ある意味、小沢一郎とは好対照ではある。

  • 選挙の季節

    いよいよ選挙の季節がやって来た。このひと月、じっくりと政局ウォッチングしていきたい。
    まずは現時点での予想だが、民主党が第一党となるが単独過半数は獲れず、どころか、社民党と国民新党、新党日本、無所属の民主シンパを取り込んでも過半数に満たず、蟹工船ブームに乗っていささか議席を伸ばした共産党がキャスティングボードを握る、といったところだ。週刊誌などでは民主党大躍進がいわれているけど、財源問題や安保問題を始めとするマニフェストの実現性について、自民党が上手く突いて来始めているから、そうそう上手くいくものとは、僕は思っていない。
    さて、どうなることやら。

  • 『レスラー』評

    僕が愛用している映画評投稿サイト
    に投稿したが、文字数の制限があったため、こちらで全文を掲載させていただく。

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    ■待ちに待ったミッキー・ローク久々の主演作!!カンヌ獲って、これだけ話題になって、実際に評価も高く、アカデミー主演男優賞にまでノミネートされて、僕は本当に嬉しい。出来れば去年のうちに観ておいて、その感動を胸に年初の賞レースを迎えたかったのだが、日本公開がこの時期になってしまったのが残念といえば残念だ。
    ■いろいろ見てると、プロレスファンにはたまらない内容、との評が多いようだったが、往年のHR/HMファンにもたまらない内容であることも忘れてはならない。ロークとトメイに「80年代は最高、90年代は最低、カート・コバーンが全てをぶち壊した」みたいなことを、RATTをBGMに語らせてるけど、これって当時『BURRN!』やら『METAL GEAR』やらの愛読者だった連中の本音だったりする。ロックだけに、ぶち壊したモン勝ちであることは百も承知なのだけれど、だからこその悔しさや嫉妬がどうしても口を突いてしまう。いっそのこと、本作のヘビメタ版みたいなのも作ったらいいかもしれない。モデルとなるミュージシャンなら、ごまんといるだろう。
    ■「ミッキー・ロークのカムバック作!」という評、というかキャッチコピーには、多少の違和感がある。今世紀に入ってから、徐々にではあるが独特の存在感を発揮することに成功しつつあったからだ。それは確かに昔のような「唯一の主演」級ではないにせよ、「ミッキー・ロークがそこでその役を演じている」ことが、その作品の一つのファクターとなっているケースを、僕らはいくつも目撃している。だから、巷の印象のように、本作でゼロから100へのカムバックをしたのではなくて、60か70ぐらいから100になった、というのが僕の印象だ。ローク自身、「ゼロから100へ」の一作として本作を位置付けるような発言を繰り返してはいるが、だからそれは、「キャッチコピー」に準じてあえてそう発言してるんじゃないか、と、穿ってしまうのである。確かに本作は唐突に数多くの映画賞を彼にもたらしたが、仮に本作が無かったとしても、『シン・シティ』辺りの存在感でもって、「その昔ブイブイ言わせてたこともある、濃ゆい味わいの性格俳優」として十二分に活躍できてたはずだ。
    ■かつて(日本では某二大映画誌を中心に)、ミッキー・ロークを「セクシー俳優」としてアイドルのように祭り上げたムーブメントが…
    (たった今、三沢光晴の訃報が…)
    …あったが、僕等も、そして本人も、そこで勘違いしてしまったようだ。いざ、あの「上目遣いのセクシー面」をはがし、「モニョモニョセクシー声」をナシにしてみると、アクターズ・スタジオ仕込みなのかどうかは知らないけれど、「真っ当な演技派」と言うに相応しいロークの実力が浮かび上がってくる。本作で僕が堪能したのはまさにそこだった。『バーフライ』でも『フランチェスコ』でも、「セクシー俳優」イメージがバイアスとなってイマイチ堪能し切れなかった「実力」が、本作では遺憾なく発揮されている。
    ■文学には「読後感」というIMEでも一発変換されるタームがあるが、映画のそれ、即ち「鑑賞後感」について言うと、なんともふか~いところから絞り出るような哀しさがあった。実は、観る前の濃厚な予想の一つとして、結局のところ『ロッキー』と一緒の構造になってるんじゃないか、という一種の杞憂があったのだが(ロークはスタローンを兄のように慕っていた時期もあるらしいから尚更だった)、平べったい解釈で恐縮だけど、『ロッキー』のテーマが「孤独なチャレンジ」であるとするなら、本作のテーマは「孤独そのもの」であると感じた。ロッキーのチャレンジは殆ど誰も理解してくれない。だが、かろうじてそのチャレンジの断片でも理解してくれるようになったほんの数名は、エイドリアンやポーリーといった現実のファミリー、即ちボクサーだの何だのの立場を超えたインサイドだ。一方のランディは、客やレスラー仲間をファミリーだと言うけれど、それは己がレスラーであるという立場の上に成り立っている。当然だけどこれは外部に形成された(/しようとした)仮想的なファミリーであって、トメイやレイチェル・ウッドのようなインサイドではない。こういった対照的な構図がある。
    ■さらに言うなら、『ロッキー』は「お伽噺」で本作は「現実」である。この社会においては、「孤独そのもの」なんて平気でやってくる。アメリカン・ニュー・シネマに対するアンチとして『ロッキー』を捉える向きもあるが、だとすれば、本作はニュー・シネマの正統、もしくは続編に属するとも言えるかもしれない。そんな「鑑賞後感」があった。
    ■…と、グダグダ書いたけど、言いたいのはこういうことだ。ミッキー・ローク最高。そして、ありがとう。

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  • 『その時 歴史が動いた』の最終回にて思う

    NHKの『その時 歴史が動いた』の最終回、総集編を観た。

    松平定知の最期のコメントにもあったように、歴史とは解釈されるものであって、次々と新しい解釈が歴史に対して産まれ出で、ブランニューされるものだ、それを視聴者に提供するのが番組の役目であった、という動的なスタンスは、いたってマジメで、NHKの(今や残念ながらその経営陣の汚名によって潰されかけている)良心の表れと言えよう。動的であることによって硬直したイデオロギッシュな解釈から免れるという意味もあったろう。

    感じたのは、テレビ番組というのは製作陣の思想の表現だ、ということだ。もちろん画面に現れてくるものだけで勝負せざるを得ないのだが、その二次元の画面がいくら華やかだったとしても、そこに制作陣の思想が奥行きとなって感ぜられないことには、それはやっぱり番組としての格が低いということになる。
    いきなりジャンルは飛ぶが、タモリの『笑っていいとも!』は、制作陣がタモリの持つグダグダ感の魅力を思想として感ぜられているから成り立っている。あれをつまんないとか言うのは、番組の思想に対する理解の低さの証左である。

    とにかく、制作会議の様子が透けて見えるような番組のあり方は、実は当たり前であるべきで、というか、そこでの議論の表出こそが番組なんであって、僕ら視聴者はそこをこそ観るべきなのかもしれない。

    そんなことを思った。

  • Mickey Rourke rises again

    いやー、残念だった。アカデミー賞。

    もちろん、『おくりびと』と『つみきのいえ』が受賞に至ったことはホントにうれしい。僕はどっちも未見だけれども、ことに『おくりびと』には日本文化や日本映画独特の何物かが詰まってると勝手に想像するし、それが評価されたということだとも想像するから、感慨もひとしおである。
    モックンは何かタダモノならぬ気配がある。極めて謙虚な態度を崩さないのは恐らく日本人的な美徳から発せられるものだろうし、チェロや納棺士の技術習得のエピソードを見聞きするにつれ、俳優としての映画に対する取り組みはひとかたならぬものがあると思った。そもそも本作は彼自身の発案によって彼自身があたためて来たものらしいから、映画人としてのセンスも一流なのであろう。何よりツラ構えがいい。アブラっこさの無い、侘びやら寂びやらがきちんとハマるマスクをしている。その点渡辺謙は、ハリウッド向けのマスクである。
    加えて、広末涼子がキレイだ。レッドカーペットを跋扈するどの女優よりもキレイだと思った。

    さて、何が残念だったかというと、もちろん我らがミッキー・ロークである。
    ショーン・ペンに主演男優賞を持っていかれてしまった。
    そもそもロークは、事前のインタビューで「賞を獲るのはペンだろう」と言っていたし、ペンが監督の『プレッジ』辺りの経緯で、ペンに感謝していることは確かだから、何ら地団駄踏むような心持ではないとは思うのだが、ロークがこれから先、主演助演問わず男優賞にノミネートされる機会がまた巡ってくることがあるかどうかを考えると、ああいう性格だし、そもそも業界から好かれてなさそうだし、これが唯一のチャンスだったんじゃないかと思えて来るのである。初代『ロッキー』におけるスタローンみたいなもんだ。ちなみにスタローンの次回作の『エクスペンタブルズ』(即ちスタローン流アクション大作)にも出るらしい。オスカー狙う俳優が出るべき作品じゃないのは明らかだ。

    そんなわけで残念がっていたら、当のショーン・ペンが受賞スピーチの一番最後に、「Mickey Rourke rises again. He is my brother.」とやった。
    演技派といえるショーン・ペンがそこまで言うわけだし、あんた『バーフライ』とかでスゲー演技見せてくれたりもしたでしょ、作品さえちゃんと選びさえすれば、あんた自身は未練無いかもしれないけれど、またまたオスカーのチャンスは巡ってくるはずだよ、俺たちファンは、俳優としてのあんたがマトモに評価されるのを心待ちにしてるんだよ、…みたいなことを、本人に言いたい。そして、「お前ファックなヤツだな。そんなモン気にしてちゃ、やってらんねんだよ」みたいなことを、言われたい。
    20年前と今とでは、随分とキャラが違うわけだが、正直彼の中でどっちが「主」でどっちが「従」なのかは、良く分からない。まぁ、その狭間で本人が悩んでたということなのだろうけど、この一連の経緯においては、今が「主」であることをタテマエとすることに、何ら異論は無い。
    ただ、あのモニョモニョ声のミッキーへの愛着があるからこそ、今のミッキーも好きなんであって、そのことはちゃんと評価しようぜ、ということは言いたいし、本人にも認めて欲しい。

    何はともあれ、「Mickey Rourke rises again」。
    ショーン・ペンのこの言葉に、昨日の僕は救われた。