投稿者: enjoybeerlife

  • 戦略的失言

    麻生総理の在任期間、ひょっとすればひょっとして、そこそこ稼ぐんじゃないか、少なくとも前とその前の総理みたいにはならないんじゃないか、と思っていたが、ここ最近の流れを見るにつけ、どうもひょっとしない感じがしないでもない。
    その理由の殆どは、もちろん失言である。
    こればっかりは小沢の言うとおりで、総理としての身持ちではない、というか、そう攻撃されてしまうことを読めないところが総理としてマズい。何もマスコミがよってたかって言われなきイジメをしてるわけではない。単にワキが甘いのである。

    右派的なポーズをとる総理は、得てして失言が多い。彼らは、今の日本を覆っているのは戦後の左派的な言説がもたらすルサンチマンである、と考えるから、そんな世間に対して物申さねばならぬ、彼我の差はちょっとやそっとでは埋めきれぬ、だからこの世の中において過激と思われる発言も厭わず、正々堂々と「失言」する。してなんぼだ。そう思っている。

    さて、僕が近年の「大総理」と思うのは、中曽根と小泉の二名である。右派としての矜持をより強く持っていたのは中曽根だから、彼を例にとると、知的水準発言や日本不沈空母論や、色々とあったけれど、少なくとも「医師は社会的常識が欠落」とか、「たらたら飲んで、食べて」とか、そんな、矛先が直裁に内に向くような「失言」はない。
    総じて言うと、「大総理」に比して、「ちっちぇーなぁ…」みたいな「失言」ばかりなのである。
    ある意味ライバルの小泉と較べても、「感動した!」とかいう陽性の発露に乏しい。

    ハナシは戻るが、右派的なポーズをとる総理は、得てしてパフォーマンスがお好きである。正々堂々と「失言」してなんぼなら、その「失言」こそが戦略の一環であるはずだ。
    麻生にはそれがない。仮に本人の中にあるんだとしても、パフォーマーとしての資質が残念ながら及ばないのか、「失言」のネタがセコい。

  • 若さを羨む PART2

    (※映画のネタバレあり)

    いやぁ、イヤんなっちゃった。

    数日前にTSUTAYAで映画を物色していたところ、普段お世話になっているレビューサイト
    で興味が湧いた作品が目に入ってきたので、それを借りた。2つあるのだが、『マグノリア』と『ユージュアル・サスペクツ』がそれである。

    昨日は多少時間があったので、長いほうの『マグノリア』を観た。
    小一時間ほど観進めると、セックス教団の教祖みたいな役のトム・クルーズが女性のインタビューアーに詰問されるシーンが出てくるが、そこで強い既視感に襲われた。間違いなくこのシーンは見たことがある。次のシーンも。その次のシーンもだ。これはもしかして前にも借りたことがあるのだろうか。いや、さすがにジャケットでそれは判別できるだろうからそれはない。それともそれすら忘れてしまってるのか。昔WOWWOWで途中から観たのだったか。だとしたらいつ頃か…。
    とにかく不安に苛まれつつ、さらに観進めると、再び詰問のシーン。ついにトム・クルーズが我慢の限界を超え、インタビューアーに決定的な何かを言う。
    僕はその言葉を、ほぼ正確になぞることが出来た。

    気を取り直して、今日は『ユージュアル・サスペクツ』を観賞しようと。その前に、やっちゃいけないと分かっていながら、例のレビューサイトの本作の項をチラチラ遠目に眺めてみたが、その中に「カイザー・ソゼ」の文字が。なんか聞いたことあるぞ。「カイザー・ソゼ」。もしやと思いつつ、いざ再生してみると、実に困ったことに、こちらはハナから既視感に責められる。ああ、こりゃ見たわ、と。案の定だわ、と。ケヴィン・スペイシーが出てきた瞬間、お前が「ソゼ」だろうと。で、こちらもジャケットを覚えていない。

    観た映画ぐらい、タイトルとジャケットと内容ぐらいは一致して覚えている程度には、自分は映画が好きだし、記憶力もあると信じていたが、二晩にしてそれは崩れた。
    一つだけなら、まだこんなこともあるさで済まそうとは思える。が、二つ連続となると、もうだめだ。抗い様がない。

    何に?
    己は老い始めたのだ、と認めることに、だ。

  • ビートたけしの「照れ」と傲慢

    25日に放送された『爆笑問題のニッポンの教養
    』で、太田光が、「ビートたけしが、本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった、というのは、それは彼の照れであって、ずるい」というようなことを言っていたが、同感である。こういう太田のセンスとかスタンスは、僭越ながら僕のそれとかなり近いな、と思えるところがあって、番組の締め括りの彼の言葉(早稲田の学生に向けて「ピュアな気持ちや意思、考えを、世に訴えるには、芸に乗せなければならない、そのために芸を磨くべき、云々」)など、まさに我が意を得たりの心境であった。

    それはともかく、ビートたけしの「照れ」についてだが、今朝「ズームイン!!SUPER」で例のお笑いBIG3特番
    の番宣ニュースをやっていて、たけしがタモリとの関係を聞かれて「お互い照れ屋だから、会っても睨み合ってる」と言っていた。「睨み合ってる」は冗談としても、じゃあたけしは照れ屋かというと、それは違うだろう(タモリと相対すると照れ合ってしまうことは事実だろうが、かといってたけしやタモリが照れ屋であることにはならない)。ここ
    でも書いたけど、たけしの「照れ」はフリであって、何かを照れ隠そうとする戦略的な振る舞いだ。
    じゃあ何を隠してるのかというと、バイタリティと動性のコンプレックスに溢れた成功者としての己の像である。「本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった」というようなことを言い出すのは、恐らく90年ぐらいからであって、その頃にはたけしはすでにタレントとして栄華を極めていた。そこからさらに映画の世界でも世界的な成功を収めるのだが、たけしは、自身が、さらにそれ以上の存在になり得ることを暗示するために、「照れ」る。
    つまり、あの「照れ」の意味は、「いや、そんなこと(タレントや映画作家としての成功)どうでもいいんだけど…」という傲慢だ。
    「さらにそれ以上の存在」とはどんな存在か。それはバイク事故でもって己の生死すらも弄ぶような存在、なのかも知れない。

    とにかく、ビートたけしは、日本の芸能史の中に一際大きな存在として刻まれるであろうことは間違いない。美空ひばり並みか、ともすればそれ以上だろう。

    いよいよ今日から日テレのBIG3特番が始まる。まずは明石家さんまからだ。フジの『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!
    』以来、最近はBIG3が久々に大きくフィーチャーされ、全くもって嬉しい限りである。

  • 『日本一小さな大大名―たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代』 山下昌也著

    日本一小さな大大名―たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代/山下 昌也
    ¥1,365
    Amazon.co.jp

    タイトルから、江戸時代に存在したタイニーでノーブルな藩についての悲喜こもごもを、コミカルなタッチも交えて紹介する一冊、と推察したのだが、果たしてその通りであった(そりゃそうだ)。
    だから、この本はテーマの選択の時点で勝利している。
    な~んにも構えずに、ただひたすら読む快楽に身を任せればよい。
    だから僕も、特に感想はない。
    感想はないけど、心にほんのりとした「をかし」が芽生えた。
    ちょうどそんな本を探していたから、いい買い物をした、と思った。

    ~覚えておくこと~
    ・水戸光圀は南朝正統論から足利尊氏を逆賊扱いしたが、尊氏の子孫に光圀の子孫が養子に入ったという、歴史の皮肉。

  • 裁判員制度を勘繰る

    正直不勉強でよく分からないんだが、いよいよ施行に向けて本格的に動き出した感のある例の裁判員制度、ありゃ悪法だろ。裁きは法でもってやるもんだから、それを体現するのは法のプロなはずである。法の世界なんて、あんまり複雑に入り組んでるものだが、結果としてそうなったんじゃなくて、そもそも入り組まざる得ないものである。だからこそ裁判官という専門職中の専門職が存在するわけだし、司法試験はやたらと難しいわけなのだ。素人無用であるべきの最たるフィールドと言っていい。そんな世界において、無作為抽出された素人に責任の片棒担がせようなんてのは、そりゃおかしいに決まってる。裁判官らが己の責任を分散→軽減→回避しようとしてるとしか思えない。裁判員制度のお題目として一番大きいのが、裁判とは果たして如何なるものかを一般庶民に啓蒙する、みたいのだそうだが、そりゃ大いに結構だし、僕も啓蒙されたいし勉強もしたいけど、その手段がこれじゃあ、啓蒙以前にコトに携わらねばならんという、本末転倒というか何というか、とにかくワケが分かんない状態にしかならんだろ。

    ま、ここまでは広く一般に言われていることであって、僕があらためて書くまでも無いだろう。実のところ、僕のこの問題における関心は、その成立過程にある。

    当然この裁判員制度なるものは、かつてのある時点(2004年5月だそうだ)に立法され、公布されたわけだが、その過程を我々一般国民は良く知らない。知らされていない。僕はこのブログで政治をネタにした記事をいくつも書いてるけど、恥ずかしながら法が成立する様式を良く知ってるわけでも何でもなく、ただひたすらアマチュアの政局ウォッチャーなだけである。と、卑怯にも免罪符を掲げつつ問うが、成立までの段階で、それに反対した政党があったんだろうか。あったんなら、今こそそのことを声高に訴えて何ぼだと思うのだが、そんな気配はどの政党からも見えてこない。あの時反対の機運がいささかでも起こっていれば、この悪法は葬られてたかもしれないのに、それこそ遺憾である。
    メディアも今になってあーだこうだ言うんじゃなくて、事前にしっかり監視し、我々に周知せしめるべきだったはずだ。
    なんか、ちょっと前の「ホワイトカラーエグゼンプション」騒動もそうだが、衆院解散して国民の審判を仰ぐとかしても良さそうな法案が、スルっと通りそうになったり、通ってしまったりするのが怖い。

    こりゃこっそり通さねばならんウラの事情があるんじゃないかと勘繰ってしまう。いや、そうに違いない。

  • 『民主党派閥抗争史―民主党の行方』 板垣英憲著

    民主党派閥抗争史―民主党の行方/板垣 英憲
    ¥1,575
    Amazon.co.jp

    自民党について書かれたものは数多くあるが、民主党のそれはやっぱり少ない。そんな中、ある程度包括的に、かつ手頃で平易に書かれたものとして、本書はちょうど良いと思う。

    筆者独自の民主党への提言として、「民主党は『友愛』民主党となれ」というのがある。オーナーである鳩山由紀夫がかねてから「友愛」を掲げていた、というのもその理由の一つだが、世界史上最大級の民主革命であるフランス革命の旗印、自由・平等・博愛のうち、今のところ自由を自由民主党が、平等を社会民主党が担っているとして、じゃあ民主党は博愛を担おうじゃないか、ということだそうだ。
    なかなかウマいこと言うもんだが、ウマいという以上の「何か」は、ない。多分。

    校正が甘過ぎ。次の版を待ったほうが良いかもしれない。

    ~覚えておくこと~
    ・民主党内の各派閥。小沢派「一新会」、羽田派「政権戦略研究会」、川端派「民社協会」(旧民社党系)、菅派「国のかたち研究会」、鳩山派「政権交代を実現する会」、横路派「新政局懇談会」(旧社会党系)、前原・枝野派「凌雲会」(旧さきがけの若手系)、野田派「花斉会」の、八個師団。
    ・結党当初、横路孝弘は「陰の党首」といわれるほどだった。それだけ社会党出身者が多く、「横路新党」の様相すら呈していた。
    ・前原代表の後任として、渡辺恒三擁立の動きがあった。筆者によれば、渡辺は未だに「総理大臣への夢」を抱き続けており、前原・枝野派や野田派がそれを担ぐという。
    ・小沢は去年の12月に訪中したが、その際にはなんと、ジャンボ機を3機もチャーターし、千人もの議員や支持者を引き連れて行ったそうだ。

  • 『ブラタモリ』延期と、僕の不埒

    今朝、ふと気付いて、楽しみにしていた『ブラタモリ
    』の放送予定日時を確認した。「そろそろだよな」と思いつつ。
    次の瞬間、声にならない悲鳴を挙げた。
    放送予定日は確かに今日(実際は昨日、即ち23日)なのだが、時間は0:10、即ち昨日の深夜である。「そろそろ」どころではない。完全に見逃した。
    単純に楽しみにしていたものを見逃してしまった無念さと、それに加えて、タモリファンとしてしてはいけないことをしてしまった後悔が、僕の胸に一挙に去来した。海外出張以後、どうもいけない。

    止むに止まれぬ思いだったけれど、どんな内容だったのかだけはチェックしておきたかったから、「ブラタモリ」をキーワードにブログ検索した。
    すると、「『ブラタモリ』延期」などとある。どうやら、元厚労次官宅襲撃事件「犯人」自首の臨時ニュースで、そうなったらしい。

    …て、オレ、そのニュース観てたじゃん。

    ここでまた、僕の胸に一挙に去来した思いが二つある。
    あの時間の僕はなんて能天気だったんだという自己嫌悪と、そんなニュースが僕を救ってくれたという不埒。

    いくつかのブログには、「コイズミタケシとやらはこんなタイミングで自首すんな」といった意見もあったが、「コイズミタケシさん、このタイミングで自首してくれて有難う」、とまではさすがにならないけれども、とはいえ結果そういうことに繋がってしまうこの状況、やっぱり僕は「不埒」にならざるを得ない。

  • 『九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史』 古川愛哲著

    九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史 (講談社+α新書 381-2C)/古川 愛哲
    ¥840
    Amazon.co.jp

    家重女性説は、いわゆるトンデモの域を出るものではないが、例えば謙信女性説などに較べると、遺骨なんかの物証が動員される辺り、なかなかその気にさせてくれる。もしそうだとしたら、結構な悲劇であって、著者の筆致はその悲劇性をリリカルに盛り上げる。が、ロジックのアラは相当目に付く。そもそもがトンデモなものだから致し方ないのは確かだが、そこを如何に上手くダマしてくれるかに僕らは期待してるのだ。

    他にも、江戸時代の数々のトリビアや事件に対する(トンデモ)解釈が掲載されていて、なかなか楽しめる。とりわけ、浅野内匠頭の刃傷事件は大名同士の「不通」問題に端を発するとの説は、ナイスなトリビアであった。ただし、歴史的事実の誤りが多い。それ自体トンデモに則った「解釈」なのか、それともただの間違いなのか。前者なら、それと分かるような書き方をして欲しい。

    ~覚えておくこと~
    ・「華族真田幸民氏の珍訴訟」
    ・秀忠遅参の理由は、路銀が無くて、本多政信が江戸に取りに帰っていたから?
    ・稲富一夢(祐直)の数奇なる人生
    ・「天下普請」は浪人の雇用問題対策で、それを読めずに国許から人足を連れてきた肥後加藤家は改易に?
    ・「尊王攘夷」の「夷」は、そもそも江戸幕府の意だった?

  • 『自民党―転換期の権力』 毎日新聞政治部編集

    新聞記者連中が書いてるだけあって、随分と読み応えがあった。国家の権力が中曽根内閣でもって相当量総理に集中しましたよ、という説明なのだが、86年の初版発行だから、その後も随分と行政改革が叫ばれ、それをやって、何とか十数年後の橋本内閣で一応の結実を見たことになってるんだけれども、未だに官僚だの党派だの利権団体だのの束縛からいささかもフリーじゃない様子の現在の内閣総理大臣像を知る僕等としては、あの時分でそれほどのムーヴメントが表裏であったなら、今に至るまで何ぼあったのよ、というところが、正直な感想である。

    僕が生を受けたのは73年だが、それ以降の大総理といえば、中曽根と小泉に尽きる。大総理の芽はあったのだけれど叶わなかったのは、竹下、橋本、小渕か。田中がそうだったから、木曜クラブ→経世会の流れは、よくよく運がないのかどうなのか。

    ~覚えておくこと~
    ・香山健一なる学者が、中曽根行革の理論的背景を提供していたらしい。
    ・この本が書かれた当時でさえも、(旧)社会党のグダグダは露見していた。
    ・ODA調査団を含む海外視察団の報告書たるや、見事にいい加減なものである。…的な、当時の、税金の無駄遣いとか、代議士や官僚のモラルの低下現象は、想像を超えたものがある。現在それがどの程度改善されたか、それこそ少なくとも新聞記者並みのコミットをしなければ分からないのだろうけど、それはそれとして、このことを僕らなりに、あらためて注目する必要がある。

  • 「自然状態」教

    またまたやや古い話で恐縮である。
    金融サミットの話だ。
    「神の見えざる手」に対する米国と欧州のスタンスの違いが、ここまで明白になったのが興味深かった。
    欧州にしてみれば、どうして米国の連中が「神の見えざる手」というただのキャッチフレーズをそれこそ神格化してしまうのか分からないに違いない。

    「万人の万人に対する闘争」と表現される「自然状態」なる概念がフィクションであることは明らかだが、いわゆる新保守の連中は、フィクションであっては彼らの言説に説得力がなくなってしまうので、それはリアルなんだという幻想を僕等に植え付けるのに躍起である。つまり、彼らは彼ら自身のロジックのために「自然状態」を要請する。「自然状態」という架空が彼らの存立基盤である。

    「自然状態」を司るのは、「神の見えざる手」の「神」と同一である。この「自然状態」神は、決してエコロジーの守護神なんかではもちろんなく、人間どもが互いに潰しあってるサマを見て喜んでる神だ。

    「自由」は「自然」か、なんてデリケートな議論は出来ないし、二度の大戦の勝利を経て「自然状態」神のご利益をすっかり盲信するに至った現在の米国は、その布教に余念がない。「自然状態」を「発明」した、いわば本家のEUは、その架空性を分かりすぎるほど分かっている程度のデリカシーぐらいは持ち合わせているから、米国の布教活動に対しては随分迷惑している。「自然状態」教のイエズス会とも言うべきマイクロソフトを容れることに最大限抵抗したのは、当然といえば当然だ。

    これは意外と根深い宗教戦争になるかもしれない。