test

posted on 2015年5月14日 in 「ハートカクテル」考

DSC_0142

テストテスト テストテスト

テスト

posted on in 未分類

DSC_0191

テスト

宗主国が枢軸側であったというレアケース

posted on 2013年3月5日 in 時事

昨日、TVタックルを観てたら、三橋貴明がこのようなことをいっていた。 「イギリスのインド支配によって、二千万人餓死した。しかし、インド人はそれについてイギリスに文句をいったことはない。なぜなら、自分たちに誇りを持っているから。」 誇りを持っている者は、いかなる理不尽に対しても文句をいってはいけないのかの如くである。 そんな馬鹿な話があろうはずがない。例えば原爆投下について日本は何もいわず黙ってるべきか?そのまま歴史に埋没させるべきか?それが誇り高き者がとる態度なのか?いや、そんなわけはない。 ちなみに上の発言は、韓国の歴史認識・対日謝罪要求に対して発言されたものである。韓国はインドを見習って日本に文句をいうな、というわけである。本来この問題は、事実関係とその了承・承認の話であるはずなのだが(番組ではその後西田昌司がそれを指摘していた)、一体どうやったらこのような、捻じ曲がった「誇り観」に至るものなのか。 植民地主義・帝国主義に対する独立闘争が一通り済んで、ここ数十年はその亡霊とたたかっている、というのが今の世界を取り巻く状況なんだと思うけど、その […]

「ハートカクテル」考 ~ vol.027 ネクタイに関する4ページ

posted on 2012年10月26日 in 「ハートカクテル」考

「自由」との対比で、「(女性からの)束縛」というニュアンスがあろうものなら、明石家さんまがいかにもやりそうな噺となるのだが。いずれにせよ、見立てとしては随分上手いこと考えたもんである。大体、ネクタイそのものが「束縛」の象徴じゃないか。 もうこのあたりで、わたせせいぞう氏はじめ制作陣は、この「ハートカクテル」を、「都会派、オシャレ、バブリー’80」な路線で突っ切ろうと決めた風である。vol.6みたいな、70年代のフォークが聞こえてきそうなテイストは、もう微塵もない。 アニメ版では、「ボクのネクタイ」なるタイトルで出ている。人物のデッサンが、原作より随分洗練されていて、まるで北条司のようである。放送は87年ごろ、原作より三年程度後だと思うが、アニメファンの方々から見て、この三年間の漫画・アニメ界における作画の進歩には、すさまじいものがある、みたいなことはないのだろうか。江口寿史、鳥山明、北条司、大友克洋らの作画は、素人目たる小生の目から見ても、ほんのちょっと前の世代、つまり、70年代フォークのエッセンスがややかぶってる世代である、例えば、 […]

「ハートカクテル」考 ~ vol.026 ’84 ── 夏

posted on 2012年10月16日 in 「ハートカクテル」考

このタイトルのつくりこそが、まさにザ・バブルであり、だからというわけではないのだが、この回は初期のハートカクテルを代表する名作の一つに数えられるだろう。 特にヒロインの造形が白眉で、本作ではめずらしいショートカット+妹キャラ。加えて、透明感とか、繊細さが表現されていて、主人公にとって、いかにも儚い存在として立ち現れているらしいことが見て取れる。強いて例えるなら、デビュー当時の原田知世か。いや、当時の原田知世がさほどに儚げであったものかどうかは知らないが。 このテの娘は、もう数年もすると、オシャレを覚えて、髪を伸ばして、恋もして、やたらといい女になってるものと相場が決まってる。彼女のそんなポテンシャルを、主人公はほんの一夏独占したつもりだったに違いない。 1984年の夏といえば、ロサンゼルス・オリンピックである。その前のモスクワ・オリンピックは、日本を含めた西側諸国のボイコットでもって全くといっていいほど記憶に残ってないから、団塊ジュニアの小生が初めてちゃんと見たオリンピックといえる。この時のアメリカ文化に対する印象は強烈で、翌年の「ウィ・アー・ザ […]

「ハートカクテル」考 ~ vol.025 プール・イン・ザ・レイン

posted on 2012年10月6日 in 「ハートカクテル」考,芸能

「ハートカクテル」の初期の作品中、小生がもっとも語りたかったのは、何を隠そう当回である。 この、「プール・イン・ザ・レイン」なるタイトルから、小生が真っ先に連想したのは、レッド・ツェッペリンの「フール・イン・ザ・レイン」だ。 小生がツェッペリンにハマり出したのは、確か中3の時だったと思うが、最初に買ったツェッペリンのアルバムが、「フール~」を収録している「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」。多少なりともツェッペリンの知識がある人なら分かると思うが、このパターンは非常にレアで、そんなわけだから、ツェッペリンの曲の中で一番好きなのは「イン・ジ・イヴニング」です、というひねくれたツェッペリンファンになってしまった。 で、ツェッペリンのソフトな曲調のもののうちもっとも好きなのが、この「フール~」。「ラ・バンバ」や「ツイスト・アンド・シャウト」といった名曲と同じ、C→F→G→Gの黄金のコード進行で、この進行は、我がボン・ジョヴィ大先生の一連のヒット曲の原型ともいえるから、すぐに耳が反応してしまった。ツェッペリンには珍しく、ビルボードのシングルチャートのTOP […]

「ハートカクテル」考 ~ vol.024 もうフォークは投げない

posted on 2012年9月30日 in 「ハートカクテル」考

たまに差し込まれる、スポーツものの初回。今作は、「一介の組織人たる矜持」がテーマだろうか。小生自身、コレを読んでサラリーマン時代を思い出しはするが、こんな渋い役どころではなかったことは確かだ。 みな黒髪だし、SONYぽい看板もあるしで、日本のプロ野球が舞台のようだが(もっとも80年代当時のSONYは、それこそウォークマン旋風みたいので、とっくに海外進出してたろうけど)、大リーグが舞台のハリウッド映画を観ているかのような趣がある。無論わたせ氏の作画によるところが大きいのであるが、キャッチャーの口髭面が、なんとなくチャールズ・ブロンソンかトム・セレックを彷彿とさせるからかもしれない。日本人でこの口髭が似合う男は、そういないだろう。 ちなみにそのトム・セレックだが、『ミスター・ベースボール』なる日本のプロ野球を舞台にしたハリウッド映画で、高倉健と共演している。

「ハートカクテル」考 ~ vol.023 オフホワイトのレースのスカーフ

posted on 2012年9月27日 in 「ハートカクテル」考

えーと、美沙子は男にお別れを言いに来た? 二人はもう、恋人として「別れてしまっ」ているから、この場合のお別れは、男が街から去るという意味でのお別れ、という意味である。で、男から恋人としての別れを切り出したのなら美沙子の行動も分かるけど、男の未練タラタラぶりを見れば、どうもそうでもない様子。てことは美沙子から別れを告げたんだろうけど、それでもってわざわざ男に別れのあいさつに来るなんてのは、男にとっては随分残酷な仕打ちといっていい。しかも例のスカーフを纏いつつだから、美沙子はドSに違いない。 いやいや、美沙子は男とよりを戻しに来たんだ、という解釈。明日、美沙子は自らの意志でもって別の男との見合いをするわけだから、その解釈は当たらない。もし当たるんだとすれば、美沙子は「心境の変化」が極めて頻繁な危なっかしい女である、という解釈にならざるを得ない。 まあ、だからどっちにしろ、美沙子は危ない女なんである。いや、そんなキャラ設定だったはずはないんで、つまりは良くわからないのであるが、さてどう解釈したものか。 男の姿形は、原作とアニメでは随分違う。なぜアニメの […]

「ハートカクテル」考 ~ vol.022 ふたりきりのビアガーデン

posted on 2012年9月18日 in 「ハートカクテル」考

「ハートカクテル」には珍しく、遠距離恋愛を選んだ男女の物語。小生も単身赴任生活が長かったので、尚更そんな二人を応援したくなる。 「冷房の中でアイスコーヒーを飲むより」「むし暑い外で冷えたビールを飲るのが正解だ」 我が意を得たり、とはまさにこのこと。小生にとって、年間通しての最高のシチュエーションて、まさに、「むし暑い外で冷えたビールを飲る」、なのである。あ~もうヨダレが。 vol.17に引き続き、「カリンカリンのフライドポテト」も登場。「アスパラガスをいため」たのも美味そうだが、僕は茹でた方が好きだ。どうでもいいが。 アニメでは、ラストにちゃんと「カリフォルニア・ドリーミング」(に限りなく近い曲)が流れるのだが、ちょっと雰囲気が違うんじゃないか。ここはやっぱりクワイエット・ストーム系じゃないとはまらない気がするが、如何に。

竹島問題の非対称性

posted on 2012年8月25日 in 時事

竹島問題について気になっているのは、その非対称性についてだ。日本にとっては基本的には純粋な領土問題なのだが、韓国にとってのそれは、アイデンティティそのものだということである。 大韓民国のアイデンティティは、いわゆる「反日」思想を核の一つとして定義されているといってもいい。竹島はその具現であるからして、韓国民はここまで「熱狂」するし、政治家はこれを利用しようとあれこれ試みる。 イ・ミョンバク大統領が、天皇陛下に謝罪を求めた。「サヨク」の僕から見ても、ちょっとあの発言は品がない。 国家としての日本のアイデンティティは、明治以来、なんだかんだ言って天皇を核の一つ(唯一の核と考えている人すら少なからずいる)として定義されている。であるからして、日本「臣民」はここまで「熱狂」するし、政治家はこれを利用しようとあれこれ試みる。 ここに至って、竹島問題とその周辺が、ようやく対称性を帯び始めたのかもしれない。

次へ »