「ハートカクテル」考 ~ vol.027 ネクタイに関する4ページ

posted on 2012年10月26日 in 「ハートカクテル」考

「自由」との対比で、「(女性からの)束縛」というニュアンスがあろうものなら、明石家さんまがいかにもやりそうな噺となるのだが。いずれにせよ、見立てとしては随分上手いこと考えたもんである。大体、ネクタイそのものが「束縛」の象徴じゃないか。

もうこのあたりで、わたせせいぞう氏はじめ制作陣は、この「ハートカクテル」を、「都会派、オシャレ、バブリー’80」な路線で突っ切ろうと決めた風である。vol.6みたいな、70年代のフォークが聞こえてきそうなテイストは、もう微塵もない。

アニメ版では、「ボクのネクタイ」なるタイトルで出ている。人物のデッサンが、原作より随分洗練されていて、まるで北条司のようである。放送は87年ごろ、原作より三年程度後だと思うが、アニメファンの方々から見て、この三年間の漫画・アニメ界における作画の進歩には、すさまじいものがある、みたいなことはないのだろうか。江口寿史、鳥山明、北条司、大友克洋らの作画は、素人目たる小生の目から見ても、ほんのちょっと前の世代、つまり、70年代フォークのエッセンスがややかぶってる世代である、例えば、高橋留美子とか、あだち充とか、その辺の作家とは、随分絵の印象が違うのであるが、ちょうど小生が小学生で、いわゆる「自由帳」に描くべき絵がそれだったから、この間の「作画の進歩には、すさまじいものがある」ように思えるのである。

「ハートカクテル」考 ~ vol.026 ’84 ── 夏

posted on 2012年10月16日 in 「ハートカクテル」考

このタイトルのつくりこそが、まさにザ・バブルであり、だからというわけではないのだが、この回は初期のハートカクテルを代表する名作の一つに数えられるだろう。
特にヒロインの造形が白眉で、本作ではめずらしいショートカット+妹キャラ。加えて、透明感とか、繊細さが表現されていて、主人公にとって、いかにも儚い存在として立ち現れているらしいことが見て取れる。強いて例えるなら、デビュー当時の原田知世か。いや、当時の原田知世がさほどに儚げであったものかどうかは知らないが。
このテの娘は、もう数年もすると、オシャレを覚えて、髪を伸ばして、恋もして、やたらといい女になってるものと相場が決まってる。彼女のそんなポテンシャルを、主人公はほんの一夏独占したつもりだったに違いない。

1984年の夏といえば、ロサンゼルス・オリンピックである。その前のモスクワ・オリンピックは、日本を含めた西側諸国のボイコットでもって全くといっていいほど記憶に残ってないから、団塊ジュニアの小生が初めてちゃんと見たオリンピックといえる。この時のアメリカ文化に対する印象は強烈で、翌年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」とも相まって、アメリカのエンターテインメントのとてつもなさをまざまざと見せつけられた。
テレビなんかでオリンピックというと、なぜジョン・ウィリアムスが書いたロス五輪のファンファーレが鳴り響くのか。

もちろんこの曲自体のインパクトもあるだろうけど、「オリンピックといえば、1984年のロス五輪」、となる人がそこそこいるからに違いない、と、小生は密かに思っている。お金の面では大成功だったらしいが、アメリカ文化の発信という面でも大成功だったろう。

当時アメリカの経済は、日本とは逆に「双子の赤字」やなんかでちょっとしょっぱかったらしく、その後ジャパンパッシングまで発展してしまうわけだが、じゃあアメリカ文化は暗かったのか、といわれると、全然そんな印象はない。むしろ、マイケル・ジャクソンやプリンス、ヒップホップ、ニュージャック、LAメタル、MTV、フットルース、トップガン、スタローン、スピルバーグ、エディ・マーフィー、グーニーズ、バック・トゥ・ザ・フューチャー、そしてレーガン…と、やたらと陽気で健康的で、日本同様「ザ・バブル」な要素に満ち溢れている。対して90年代、クリントノミクスで経済は絶好調のはずだが、オルタナ、グランジ、ウェッサイと、不健康がウリみたいなのがメインストリームを占拠してて、気分的にはバブル後の日本とそう変わらない。
じゃあ、「バブル経済」はともかく、「バブリー」なる時代の気分というのは、何によってもたらされるのか。日本とアメリカに共通する、80年台と90年台を隔てる要因、それはやっぱり、冷戦構造の崩壊じゃないか。

ちょっとお題が飛び過ぎたので、ここらで終了。
別荘、なるものを、おそらく主人公と同年代であろう「F」なる友人が所有しているというあたりを指してバブルと呼ぶのは、誠に正しい。

「ハートカクテル」考 ~ vol.025 プール・イン・ザ・レイン

posted on 2012年10月6日 in 「ハートカクテル」考,芸能

「ハートカクテル」の初期の作品中、小生がもっとも語りたかったのは、何を隠そう当回である。

この、「プール・イン・ザ・レイン」なるタイトルから、小生が真っ先に連想したのは、レッド・ツェッペリンの「フール・イン・ザ・レイン」だ。

小生がツェッペリンにハマり出したのは、確か中3の時だったと思うが、最初に買ったツェッペリンのアルバムが、「フール~」を収録している「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」。多少なりともツェッペリンの知識がある人なら分かると思うが、このパターンは非常にレアで、そんなわけだから、ツェッペリンの曲の中で一番好きなのは「イン・ジ・イヴニング」です、というひねくれたツェッペリンファンになってしまった。

で、ツェッペリンのソフトな曲調のもののうちもっとも好きなのが、この「フール~」。「ラ・バンバ」や「ツイスト・アンド・シャウト」といった名曲と同じ、C→F→G→Gの黄金のコード進行で、この進行は、我がボン・ジョヴィ大先生の一連のヒット曲の原型ともいえるから、すぐに耳が反応してしまった。ツェッペリンには珍しく、ビルボードのシングルチャートのTOP40に入ったのもうなずける。ギターソロもいい。このラテン然とした平和な曲を、オクターバー+ディストーションでぶちかまそうなどと思うのは、ジミー・ペイジをおいて他にいない。また、ジミー・ペイジは、絶対にソロを2テイク以上録らなかったというが、ある程度の流れや、出だしのフレーズなどは、事前にセットしておくそうで、このソロは、そうやって録られたことがよく分かる好例だと思う。

そのフレーズは、なぜだかやたらと切ないのだが、切ないのは何もフレーズだけではない。速弾きがヘタウマ過ぎて、聴いてるほうが別の意味で切なくなってくる。「速弾けてない速弾き」を、こともなげにに商業作品に持ち込んでしまう、そんなことを許されるのは、ジミー・ペイジをおいて他にない。しかしながら、ロックに目覚めたばかりのミドルティーンが、「レッド・ツェッペリンこそハードロックの創始者!」みたいな情報ばかりが先行した頭で、このソロをありがたく拝聴する限り、「おぉ、もしかしてこれが速弾きというヤツか」となってしまうこともないわけではない。白状するが、事実、当時の小生は、この速弾きとイングヴェイ・J・マルムスティーンのそれとを比較して、「ちょっとイングヴェイの方が上手いかな」ぐらいに思ってました。イングヴェイさん、マジごめん。基準、とか、モノサシ、というヤツは、きちんと身につけてなんぼである。

後年、知り合いのドラマーにこの曲の話をしたら、このボンゾのドラミング、ハーフ・タイム・シャッフルの一つの頂点と言われる、あのTOTOの「ロザーナ」のドラムパターンの原型になったんだそうな。なんでも、ジェフ・ポーカロ自身の証言があるらしく、ドラマーの世界では常識なんだそうである。YouTubeでその証言とやらを発見したんで、一応貼っておく。

さて、ツェッペリンの話が長くなってしまったが、「プール~」の方に戻ろう。このタイトル、わたせせいぞう氏がツェッペリンの「フール~」のもじりとしてつけたものかどうか、一切情報はないのだが、小生はそうじゃないかと思ってる。「わたせ氏がツェッペリンなんか聴くわけないじゃん」と思うかもしれないが、理由は二つある。

一つは、もじりでもないのに、「プール・イン・ザ・レイン」などというタイトルをつけることもない、ということ。あらゆる可能性の中から、なぜこのタイトルが選ばれたのかを想像するに、「フール・イン・ザ・レイン」の存在を抜きには考えづらい。「雨の中のプール」ではなく、あくまで「プール・イン・ザ・レイン」なのである。最初は、”fool in the rain”なる常套句でもあるのかと思ったが、Google.comで検索をかけて、10ページ調べてみても、それはあくまでLED ZEPPELINの『Fool In The Rain』であった。

二つ目の理由は、最初に紹介した「フール~」を収めているアルバム、「イン・スルー・ジ~」のジャケットにある。

このジャケット、Wikipediaの解説にもあるように、ちょっとした仕掛けが施されていて話題になったものだが、マッチを擦るこの男、白の帽子に白のスーツで、「プール~」の方の主人公の出で立ちと一致するのである(原作の場合。アニメ版は、ちょっと色味が違う)。小生の願望が入り混じった推測ではあるが、これをただの偶然とも言い切れまい。