9条に対する、とりあえずの見解

posted on 2009年1月22日 in 雑感

ビートたけしが最近色んなところで護憲派であることを表明している。もちろん9条のハナシにおいてだ。自分としては護憲なんだけど、一度国民の意思を公式に確認してみたい、みたいなことを言う。たけしは保守派の、まぁ「論客」、と目されているから、僕みたいないわゆる「サヨク」なんかからすれば、肩透かしを喰らったのは事実だ。

僕は「サヨク」であり、かつ「お笑いBIG3」のファンだから、その辺の多少複雑な感情についてはそのうち書く。

で、ここでは、僕の9条についての見解を書く。

我が日本国憲法第9条は、200年早い。
200年後に9条が誰からもしっくりと感ぜられるようになるかどうかなんて保障のしようは当然ないが、今を生きる我々に対して、「200年後には軍隊を持たなくてもいいような環境が出来るように、今から日本国民は努めましょう」みたいな文言だったならば、今よりはすんなり受け入れられて、むしろそれに、それこそ「誇りを持つ」、なんてことが我々の中にあったかもしれない。
「軍隊はもう持ちません」なんていう「規制」をされるよりは、「持てなくていい環境作りを目指して頑張ろう」と目標設定をしてやるほうが、何となくその気になれる。「今の人」には。
もちろんそれには「国民国家」に取って代わる世界秩序のヴィジョンを打ち立てねばならないのだが、200年後にはいい加減「国民国家」という制度に日本国民じゃなくとも飽きが来るだろ。

こりゃ改憲した方が早いだろ、ってことがなんぼかあることは事実だ。その点あの田母神前空幕長といささかも変わりない。現状、自衛隊がきれいさっぱり無くてもいいような安全保障のあり方などないだろうし、それはやっぱり自衛隊は軍隊なんだよってことだから、「国民国家としての日本」に身を捧げよ、という教育を隅から隅までするのが、軍人としてのマインドを涵養する最も効率的なやりかたであって、本来あるべき自衛隊員のマインド、つまり、「あなたは存在するのかしないのか分かんないような実力行使組織の一員であって、だけどそれには戦後日本としての重要な意味があるのだから、その意味を深く胸に刻んで、いざとなったら死地に飛び込みましょう」なんてのは、さすがに現場ではやってられないに違いない。このご時世、コンプライアンスと業績死守の狭間で悩む僕等だって、同じ文脈の上にいるのかも知れないんだし。

「鼻が利く」ビートたけしは、昨今の新保守派の権威凋落を敏感に察して護憲派発言をしたのかもしれないが、いやいやそうでもない、と、僕は思う。
戦後の情景、というものが、彼の中でムクムクと首をもたげて来たに違いない。「戦後」だって、確かに日本である、というほどに、我々は戦後を歩んできたのだから。

葬式妨害罪

posted on 2009年1月20日 in 時事

葬式妨害罪、なるものが存在し、それを犯した男がいる らしい。

パッと聞いた印象だけで言うと、妨害した者が何らかの信教上の理由によってそれを行ったとしたらどうなるのか、という疑問が湧いた。仮に棺を床に落すという行為が葬儀の儀式としてセットされている宗教があって、信者であるその人はその行為を通してより哀悼の意を強くするんだとすれば、それが現場で行われている葬式の様式にそぐわないものだったとしても、責められたものではないんじゃないかと思う。平たく言えば、哀悼の意をどう表現しようと、それは自由だ。実際に葬式のバリエーションなんて実に様々で、死肉を喰らうようなモンだってあるのだから。
今度はやや冷静に考えると、それはコンセンサスの問題である。信教を別とする親族を持つ場合、お互いの様式について充分な理解が必要だ。

結婚式妨害罪は存在しないのだろうか、なんて、愚にも付かぬ興味を抱かせる法律ではある。

ハゲ

posted on 2009年1月19日 in 雑感

やばい。ハゲてきた。

僕は元来髪が太くて硬いほうだったし、両の祖父も父親もとりわけハゲなわけではないから、僕はハゲることもそうないだろう、いずれはハゲるだろうけど、せめて40も半ばを過ぎてからのハナシだろう、そうタカをくくっていた。
ところが、だ。髪をたて気味にセットするのが常だから、普段から多少の地肌は見えるのが当たり前ではあるのだが、ふと鏡を見ると、前髪の辺りの黒と肌色の割合がおかしい。それまで黒9:肌色1だったものが、8:2ぐらいになっている。
やばい。まじで。

初めてネットで「薄毛」と「予防」をキーワードに検索をした。見ると、喫煙、飲酒、肉類の摂り過ぎは原因となるらしいが、だとしたら正直僕は、「そりゃハゲるわ」としか言えない生活をしてることになる。

いよいよ決断の時か?生活習慣Changeの時か?"Yes, I Can"と言うべきか?

…と、一服しながら考えるのだった。

新書の値段事情

posted on 2009年1月18日 in

しかしまぁ最近の本の値段に驚いた。新書の類だが、平気で800円とかする。
かつてはそのぐらいが上限だったと思ったが、一冊1,400円てのもあった。ページ数が特に多いわけでもないし、紙質だとか装丁だとか、特にグレードが上がった風でもない。

ぼんやりと理由を考えてみた。(1.)半年ほど前までの石油高騰につられて紙の値段が上がったからか。(2.)景気が悪くて本が売れず、出版業界の判断として「新書はわりかし知識層が読む。知識層はこの不景気でも本は買えるぐらいの財力がある立場に留まり得る。ちょっとぐらい高くてもそんな知識層なら買う。彼らをターゲットに価格設定をすると新書で1,400円はありだ。厚利少売≒ニッチ産業として新書を位置付け直そう」としたからか。(3.)それとも「こんなに不景気で本売ったってタカが知れてるから、印税の面で著者に申し訳ない。この著者は永くお付き合いしたいから、今は我々出版業者が泣くとしても、多少なりとも著者に実入りを持たせて今後の付き合いのネタにするべく、価格を上げたい」と重畳なことを考えたか、とも思ったが、印税の率を上げればいいだけの話なので、これは却下だ。

で、(1.)及び(2.)だが、(1.)が理由ではあるまい。事実として石油の値段は旧に復しつつあるし、そうなることはある程度誰の目にも分かっていたはずだからだ。で、(2.)だとすると、恐らくそういうことなんだろうけど、一番タチが悪い。何故かというと、産業の側から見るとそれはニッチでも、社会的要請というのがあるとして、その側から見ると、殆どそれは公共事業に等しいからだ。戦後の日本のわれわれ一般民衆が、それなりに教養なるものと切り結ぶ接点として、岩波サンやら講談社サンやらが提供してくれた「場」というものは、いろいろご批判はあろうけど、なかなか有り難いもんだと僕は受け止めている。たかだか数百円で、「知」の、ほんの一端だろうけど、その一端に触れられるのだ。それが1,000円前後となれば、「知」の格差は益々進む気がする。たかが1,000円と言うなかれ。「数百円」と「1,000円前後」じゃ、年収が百万円の単位で四捨五入すれば余裕でゼロになってしまうような身にはずいぶん印象が違うもんだ。

定額給付金をめぐって政界に感ずるもの

posted on 2009年1月17日 in 時事

週刊誌に書いてたけど、小泉元総理が、「給付金、野党の抵抗で止めることになっちゃいました、てなことにすれば、意外と国民は残念がって給付金の価値を実感するようになるから、そうやってから解散すれば良かったのに」なんてことを言ったそうだ。それがホントにそうなるものだったかどうかは分からないけど、稀代の政局師の発想はやっぱり違う。これまでそういう発想が与党内にあったか。あったとしても僕等には伝わって来てないし、少なくとも現状としては事実上給付金の予算は通っちゃったわけだから、無かったといっていい。僕は、小泉の発想力にあらためて瞠目したが、同時に、かつて海千山千の巣窟だったはずの自民党の、現在の政局対応力の低下ぶりに、十数年前の小選挙区制導入による政界の構造変化、地殻変化がやっと表層に現れてきたことを感ずるのである。

次期衆院選における、共産党の値打ち

posted on 2009年1月16日 in 時事

渡辺喜美の離党によって、僕にとって大きな不確定要素が出来てしまった政局だが、次期衆院選に関して一つだけ確実にいえることがある。それは、共産党の議席伸張だ。

弱者救済とか生活保護のイメージは自民党と民主党で言ったら民主党が当然先行していて、平たく言って小沢はそこを争点にしたいわけだが、この手のイメージの老舗中の老舗はやっぱり共産党で、そのアピールは今のところ順調だ。民主党の票を共産党は幾らか喰うだろう。そうなったとき、果たして民主党は「絶対」と言えるほどの多数を獲得できるか。何だかんだ言って民主党は保守政党、ま、保革対立は前時代的構造だけど、未だ「反共」は「有効」だし、その構えだから、いざとなったら共産党と連立するなどという選択肢は彼らの中にはないだろう。しかし、そうせざる得ない開票結果にならないとも限らないのが現状ではないか。それほどまでに世の閉塞感は強い。

日本共産党は決してスターリニズムやマオイズムを日本でぶり返そうとしている党ではないことは良く分かった。では、与党の一角を担わせることに我々は抵抗感が無いかといえば、これはちょっと、いや、かなり、ある。…というのが一般的な見識だと思う。
そこで、仮に民主党が共産党の力を借りねば政権を取れないという状況になったとき、民主党はどう出るのか。どうとも出られるように何らかの布石を打っておく必要もある気がしないでもない。打つとすれば、それは具体的には、有権者に共産党をどう「説明」とか「紹介」するか、といった、テクニックの問題になる。よもや小沢とて、ピュアに「反共」を唱える気もあるまい。マキャベリズムに邁進すればよろしいのである。

再びおめでとう! ミッキー・ローク!

posted on 2009年1月14日 in 芸能

我らがミッキー・ロークがゴールデングローブ賞の主演男優賞を獲得した。
ここまで来れば完全復活といっていい。同賞はアカデミー賞を占うというから、ひょっとしたらひょっとするかもしれない。

加えて更に嬉しいニュースが二つ。

今作、つまり『The Wrestler』の主題歌は、ブルース・スプリングスティーンによるもの であり、ロークとスプリングスティーンの友情によって成立したらしい。詳しくはリンクを参照されたいが、二人の間に友誼があったなぞ知らなかったし、況してや僕のヒーローの一人、ジョン・ボン・ジョヴィが崇拝するスプリングスティーンだから、僕の感慨もひとしおである。
本当は、僕がスプリングスティーンの立場になりたかった。いい曲書きまっせ。

シルヴェスター・スタローンの噂の次回作、『The Expendables』にロークが出演することが決まった
リンク先によると、これも友情絡みだそうで、かつて不遇の頃に『追撃者』に出演させてもらった恩返しとのことだが、前にも書いたが、そもそもロークはスタローンに一種の憧れがあるから、『ロッキー・ザ・ファイナル』、『ランボー 最後の戦場』と、いわばスタローンの「復活作」が少なくとも興行的にはパッとしない中、例え上記の恩などなくとも、お呼びがかかれば二つ返事で駆けつけたに違いない。

『The Wrestler』の日本公開は今夏だそうである。トレーラー を観ただけでウルウルしてしまった。

『天地人』に感じるちょっとした皮肉

posted on 2009年1月12日 in 芸能

NHK大河『天地人』。今日で二夜目だが、残念ながら半ばほどからの視聴となった。
良く言えば大河の王道、悪く言えば何の新味もないフツーの大河である。この様式美にほだされて、泣き所できちんと泣ける自分が好きだ。

阿部謙信は、角川映画の『天と地と』の榎本謙信とカブる。「本来の」(つまり通俗的な)謙信のイメージは戦術の天才で毘沙門天に身を捧げた男だから、ある種の狂気を纏っている。彼らの謙信は、それに比すると「狂気」が持つ逸脱性に欠けていて、要はマジメ過ぎるのである。今作の場合は主人公兼続に対してマトモな意味での父性を捧げるポジションだから、謙信があんまり狂気の人でも成り立たなくなってしまうのだろうが、ま、そう考えると、父性を帯びた謙信象というのはやや珍しくもある。

吉川信長。僕が芸能音楽に目覚めたのは大体小学校中学年の頃で、ヒーローは何を隠そう吉川晃司だった。あの肩幅、何とか自分のモノにならないかと、常々イカリ肩をキープするよう己を律していたことすらあった。彼の代表曲、『ラ・ヴィアンローズ』を耳にすると、当時の雰囲気が切なくフィードバックするほどである。ちなみに、作曲は大沢誉志幸で、大沢の『そして僕は途方に暮れる』は僕の中でJ-POPとして不動のNo.1だ。というわけで、吉川信長には大いに期待している。何が「というわけ」なのか分からないが。

私的なちょっとした皮肉は、『風林火山』のGacktが「美的な狂気のアイコン」として謙信を演じたところ、吉川が似たようなポジションに配されたことで、マジメ阿部謙信の立場や如何に、ということである。
たったそれだけではあるし、いつも以上にどうでもいい話なのだが、僕のとりあえずの『天地人』に対する興味は、まずはそこにあるのだから仕様がない。

『ほぼ日』絡みで2題

posted on 2009年1月11日 in 時事

数日前になるが、去年の秋に『ほぼ日』主催で行われた吉本隆明の講演の様子を、NHKでやってた。
僕は、親の世代、即ち団塊の世代の文化や思想について興味があるから、当然の如く吉本は気になる存在であり続け、かつては『共同幻想論』だの『心的現象論概説』だの読んでみたこともある。いずれも半ばで挫折したのだが。80年代以降の対談などの軽めの著作は割りと読んだ。ネオアカ・ブームの煽りもあって、思想がポップなカタチで人口に膾炙しつつあってからのものだから、吉本のハードな部分は殆どイメージとしてしか知らないまま今に至っていたわけだ。
あの独特の語るサマ、宙に手をかざして虚空を見つめながら、「あの、その、つまり…」と、たどたどしく言葉を紡いでゆく様子は、初めて観たが、舞台装置も相まってか、神懸かって見えた。
ああ、これがあの吉本か、と、大いに感慨深かったが、しかし、「あの、その、つまり…」が随分聞き苦しくて、ちょっと辟易したのも事実だ。
その部分において、僕の文も斯くや、か。

年初のタモリ対談が終わった。2006年からのスタートだそうだから、今年で4年目だが、開始当初は歴史論や天皇論なんぞも出てきてタモリとしては己のインテリジェンスの(それでも控えめな)発露の場にでもしようとしてるのかもとも思ったものだが、年を追うにつれ、ごくごく普通のタモリになってきてる。それはそれで残念ではあるが、それでこそタモリだと思えるから、タモリは偉大だ。