『ほぼ日
』に、糸井重里主幹による「笑顔」に対する考察が最近アップされていて(『ダーリンコラム』→『<サービスとしての笑顔。>』)、流通の産物としての「笑顔」を描き出している。
遠藤周作の小説『侍』に、江戸時代初期の東北の寒村に住んでいた人々は、「口数」や「感情を外に出すことが少な」かったことが描写されているが、僕には人間元来そんなもんだと思える。笑顔で歯を見せることを「はしたない」とさえ感じる文化が日本に残っていたのは、そんなに昔のことではない。
かつて、中国やヨーロッパの宮廷でも、やたらと笑顔を見せないことが高貴の証しだったそうだが、現在の社交界で振舞われる笑顔の総量を想像するに、ゲップが出そうである。昔の貴人の肖像画と、昨今のセレブのポートレートを見較べると、一目瞭然である。そりゃ、「昨今のセレブ」に「貴人」のような階級的裏付けは無いだろうが(後付けの騎士称号程度はあるだろうけど)、実際のところ我々庶民レベルでは殆どその違いを感じていない。誇りある庶民として想像してみて欲しいが、例えば江戸時代において、天皇家や徳川将軍家は、タブーではあったけれども、充分ゴシップネタになっていたそうだ。
「貴人」→「昨今のセレブ」というベクトルは、「保守的価値観」→「資本主義的価値観」と合一である。つまり、「笑顔」は「流通」されたのだ。
「笑顔」が好印象を醸し出すという、現在の実際、即ち「現実」は、資本主義による「虚構・神話」である。
「虚構・神話」が社会を上手に循環させることについて、我々の多くは既に充分自覚的だが、それだけに、「自覚的」ではない振り、「虚構・神話」だと思っていない振りを、どこまでも、止め処も無く行ってしまうことがある。振りをしている人が、振りをさせられている人、振りを勝手に振られている人に、色んなレベルでのダメージを喰らわせていることだってある、ということをこそ、自覚しなければならない。
いわゆる「大人」かどうかという議論は、本来その先にあるはずだ。なぜなら、相手が、そのことに自覚的であるかどうか、そして、それを引き受けるかどうかの確認が、「大人」には必要だからだ。もちろんこれは、日本で普通に生活する上においてスルーされることが多いし、僕だって仕事の上で出会う人々に対して一々考慮したりしない。ただ、そういった現代的「笑顔」の傲慢さに耐え切れない人たちがいることを想像できるということと、そういう人に出会ったとしたら適切に配慮し対処できるということは、いかに「社会を上手に循環」させるかという視点に立てるのが本来の大人だとすれば、それらが出来るかどうかが「大人」としての条件だと思うから、ただ闇雲に「笑顔」が大事という思想に、ちょっと油を差したくなるのだ。
ここまで書いてきたことがいかにも己のルサンチマンの発露であるような告白をすると、僕だって、「笑顔」が苦手だ。ミッキー・ロークやシルヴェスター・スタローンのような貌に憧れた結果、唇の片側しか上がらない笑顔になってしまった。そのくせ口角だけやけに上がっているものだから、厭味な笑顔この上ない。