チューター、或いは里親

posted on 2008年10月15日 in 時事

「NEWS ZERO」を眺めていたら、新卒社員の離職を食い止めるため、「チューター」だとか「里親」だとかいう制度があると。
なんだそりゃ、と、さらに観ていたら、新卒社員一人一人にその「チューター」「里親」がそれぞれ付いて、兄貴分だったり家族分だったりを演じて、当該の新卒社員の新卒社員的悩みを同情的に解消するんだとか。

やっぱり違和感を感じるのは、「同情的な解消」が会社のシステムとして行われているということだ。しかも、「里親」制度の方は、上に対して「里親報告」をするのだそうな。言ってみれば、「とん、とん、とんからりんと、隣組」と、そう変わらないワケである。
逆に考えると、それらの会社はなかなか良く考えたものだ。思想統制のメカニズムを心得ている。実際この層の離職率が低下して一定の成果が出ているとある以上、企業人としての僕は、何かしらそこから学ばざるを得ないことは確かだ。

が、やっぱりストンと腑に落ちない。システムとして行われる「同情的な解消」に、彼らの瑞々しい生の足掻きが屈してなるものかと。屈してしまってるんだから仕様がないけど、少なくとも、彼らの自覚として、「あぁ、これは思想統制されてしまってるんだな」ぐらいの意識は欲しい。その意識の上で、「俺は思想統制されてしまったので頑張ります」みたいな、ワケ分かんない発言をしてしまうぐらいが調度いい。

本音の所在、みたいなことに対して、僕はこだわりたい。
ゲームだと分かっててやってるのと、それとは知らず参画してますというのとでは、少なくとも状況として、前者の方がそのゲームを「俺やめた」といえる可能性がある分、まだマシだと思う。後者はそれをゲームだとすら思ってないから。
いや、さすがにそんなことないだろ、連中は分かってて乗せられてるよ、だから俺も付き合ってんだよ、ってのは、余りにお人良しだし、それはそれで充分「思想統制」の共犯だ。我々「アラ35」、即ち団塊ジュニアは、それなりに親世代の戦後民主主義なるものを通じて、曰く「国家の欺瞞」みたいなものを絶対悪的にしろ必要悪的にしろ意識に留め措いて来た(と僕は勝手に思ってる)が、彼ら「新卒」どもは、その意識とはぜんっっ全、無縁なのだ。

ちょっと話が逸れた。
本音の所在、ということだけど、どうであれ、この「チューター」「里親」ゲームは、これはゲームなんだと気付かれた時点で、その生産性とか存在意義を失う。ゲームは自己を相対化して初めて参加できるものだが、彼ら新卒社員が求めているのは、絶対的救い、つまりは本音の部分に関与されることなはずだからだ。少なくとも当事者である彼らの立場で言えば、本音なるものは企業の制度の内側には所在しない。もっと平たく言うと、ちょっと恥ずかしいのだけれど、「本音」は「人生」の属性だ、ということだ。だから、企業が制度として新卒社員の本音にアクセスしようというのは、お門違いだし、大きなお世話だ。
もっとも、人生なんてゲームだよ、企業人たるものプレイヤーを演じ切らにゃいかん、と、ややニヒリスティックに現実というものを悟らせるための制度なんだったら、ナシでは無い。むしろ、目的としては然るべきだ。ただ、方法としては、余りに回りくどいし、企業が追求すべき効率化の原則に反していることは明らかだ。

最近僕の中で「涵養」という安倍元総理的タームが色々と使いやすいのだが、こういった制度を敷く企業の考える「涵養」の程度の低さと、それに乗せられてしまうような新卒者しか輩出し得ない日本国の教育事情のそれとに、柄にも無く憂国してしまう今日この頃である。

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