所信表明演説

posted on 2008年9月29日 in 時事

やっぱり今回の総理はスタンドプレーがお好きである。

民主党に直接質問してしまうという異例の所信表明演説で対決姿勢を鮮明にし、議場を大いに沸かせた。政局ウォッチャーとしては大変興奮させてもらった。
具体的な中身に乏しいとの批判もあるようだが、よく知らないけど、所信表明であんまり細々したことを言ってもしょうがないだろうと思う。施策の大方針を述べることはもちろんではあるけれど、決意だとか姿勢だとか意気込みだとかを有権者に対して「表現」することこそ重要だ。

ちょっと話がそれるけど、政党政治というか議会制民主主義というか、そういう体制にあっては、我々の代表がゴニョゴニョ喋ってもしょうがないし、その意味も含めて、政治家はアクターじゃなきゃならないと思う。
乱暴に言うと、微に入り細を穿つ個々の政策について思いをめぐらし決断するのが政治家の「本来的」な仕事なんだろうけど、そのサマを見て主権者たる我々が彼らをいちいち評価できるわけがない。僕等だって僕等自身の仕事において微に入り細を穿つ個々の案件を処理しなきゃならんのだから、そんな暇はないことは誰だって実感している(さらに話をそらすと、政治に携わる人間は、ジェネラリスト且つスペシャリストたらねばならないし、その責任が及ぶ範囲たるや全く僕なんかの比じゃないわけで、少なくともそういった意味において、つまり仕事人として、彼らには畏れ入る。この責任の範囲は、とりあえず政治家をけなしておけばいいぐらいに思っている連中が、例えばマスコミや評論家や僕等の身の周りにだっているわけだけど、そんな輩の比ではないことだって明白だ)。
だからこそ成立した議会制民主主義である。義務教育レベルのことを得々と語るのも恥ずかしいのでこの辺で止めるが、で、言いたいことはこういうことである。ある政治家(とりわけ最も我々から「遠い」国会議員)を評価する際、我々の殆ど唯一の判断材料は、マスコミを通じた彼の像だ。だから、彼らはアクターであらねばならない。僕らは、個々の政策について責任を持って判断できるほどのジェネラル且つスペシャルな関与・経験・知識・スキルが、プロたる彼らに比して相応に不足しているのだから、彼らのアクティングを通じて、彼ら個々の資質や本音、総じて人物を見極め、選挙を通じてそれを発露し、案件の推移を委ねるしかない(もちろん例えば草の根の政治活動をやる道もあり、その尊さを否定する気は毛頭ない。ここでは今の日本の市井の人間におけるごく一般的な意味での政治参加について述べた)。
そういう考えは全体主義に至るとの懸念もあるだろう。だからこそ歴史に学ぶという行為をないがしろにすべきではないし、実は民主主義と全体主義は紙一重なのだという危機感を保ち、政治に関心を持ち続けるべきだ。政治の責任は、とどのつまり、国民にある。民主主義は、そのことを前提にしてしか、成立し得ない。

このパフォーマンスのウラを返せば、それは民主党に対する苛立ちと警戒感である。小沢のボディブローが相当効いている証だ。この演説を見る限りパフォーマーとしての麻生の資質は侮れないけど、それを受ける小沢もひたすら仏頂面で、何ら動じないぞというパフォーマンスは僕なんかには随分したたかなアクターっぷりに見えた。政権交代の確信は未だ持てないけれど、面白い政局が訪れるであろう予測は立った。

一つだけおせっかいを言わせていただくと、余りスタンドプレーが行き過ぎると軽く見られるのがオチである。麻生氏にはその気が窺えるので、もう少しだけでも重厚さを伴った「パフォーマー」になってもらうが宜しいかと思う。

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