「ハートカクテル」考 ~ vol.025 プール・イン・ザ・レイン

posted on 2012年10月6日 in 「ハートカクテル」考,芸能

「ハートカクテル」の初期の作品中、小生がもっとも語りたかったのは、何を隠そう当回である。

この、「プール・イン・ザ・レイン」なるタイトルから、小生が真っ先に連想したのは、レッド・ツェッペリンの「フール・イン・ザ・レイン」だ。

小生がツェッペリンにハマり出したのは、確か中3の時だったと思うが、最初に買ったツェッペリンのアルバムが、「フール~」を収録している「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」。多少なりともツェッペリンの知識がある人なら分かると思うが、このパターンは非常にレアで、そんなわけだから、ツェッペリンの曲の中で一番好きなのは「イン・ジ・イヴニング」です、というひねくれたツェッペリンファンになってしまった。

で、ツェッペリンのソフトな曲調のもののうちもっとも好きなのが、この「フール~」。「ラ・バンバ」や「ツイスト・アンド・シャウト」といった名曲と同じ、C→F→G→Gの黄金のコード進行で、この進行は、我がボン・ジョヴィ大先生の一連のヒット曲の原型ともいえるから、すぐに耳が反応してしまった。ツェッペリンには珍しく、ビルボードのシングルチャートのTOP40に入ったのもうなずける。ギターソロもいい。このラテン然とした平和な曲を、オクターバー+ディストーションでぶちかまそうなどと思うのは、ジミー・ペイジをおいて他にいない。また、ジミー・ペイジは、絶対にソロを2テイク以上録らなかったというが、ある程度の流れや、出だしのフレーズなどは、事前にセットしておくそうで、このソロは、そうやって録られたことがよく分かる好例だと思う。

そのフレーズは、なぜだかやたらと切ないのだが、切ないのは何もフレーズだけではない。速弾きがヘタウマ過ぎて、聴いてるほうが別の意味で切なくなってくる。「速弾けてない速弾き」を、こともなげにに商業作品に持ち込んでしまう、そんなことを許されるのは、ジミー・ペイジをおいて他にない。しかしながら、ロックに目覚めたばかりのミドルティーンが、「レッド・ツェッペリンこそハードロックの創始者!」みたいな情報ばかりが先行した頭で、このソロをありがたく拝聴する限り、「おぉ、もしかしてこれが速弾きというヤツか」となってしまうこともないわけではない。白状するが、事実、当時の小生は、この速弾きとイングヴェイ・J・マルムスティーンのそれとを比較して、「ちょっとイングヴェイの方が上手いかな」ぐらいに思ってました。イングヴェイさん、マジごめん。基準、とか、モノサシ、というヤツは、きちんと身につけてなんぼである。

後年、知り合いのドラマーにこの曲の話をしたら、このボンゾのドラミング、ハーフ・タイム・シャッフルの一つの頂点と言われる、あのTOTOの「ロザーナ」のドラムパターンの原型になったんだそうな。なんでも、ジェフ・ポーカロ自身の証言があるらしく、ドラマーの世界では常識なんだそうである。YouTubeでその証言とやらを発見したんで、一応貼っておく。

さて、ツェッペリンの話が長くなってしまったが、「プール~」の方に戻ろう。このタイトル、わたせせいぞう氏がツェッペリンの「フール~」のもじりとしてつけたものかどうか、一切情報はないのだが、小生はそうじゃないかと思ってる。「わたせ氏がツェッペリンなんか聴くわけないじゃん」と思うかもしれないが、理由は二つある。

一つは、もじりでもないのに、「プール・イン・ザ・レイン」などというタイトルをつけることもない、ということ。あらゆる可能性の中から、なぜこのタイトルが選ばれたのかを想像するに、「フール・イン・ザ・レイン」の存在を抜きには考えづらい。「雨の中のプール」ではなく、あくまで「プール・イン・ザ・レイン」なのである。最初は、”fool in the rain”なる常套句でもあるのかと思ったが、Google.comで検索をかけて、10ページ調べてみても、それはあくまでLED ZEPPELINの『Fool In The Rain』であった。

二つ目の理由は、最初に紹介した「フール~」を収めているアルバム、「イン・スルー・ジ~」のジャケットにある。

このジャケット、Wikipediaの解説にもあるように、ちょっとした仕掛けが施されていて話題になったものだが、マッチを擦るこの男、白の帽子に白のスーツで、「プール~」の方の主人公の出で立ちと一致するのである(原作の場合。アニメ版は、ちょっと色味が違う)。小生の願望が入り混じった推測ではあるが、これをただの偶然とも言い切れまい。

『レスラー』評

posted on 2009年6月14日 in 芸能

僕が愛用している映画評投稿サイト に投稿したが、文字数の制限があったため、こちらで全文を掲載させていただく。



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■待ちに待ったミッキー・ローク久々の主演作!!カンヌ獲って、これだけ話題になって、実際に評価も高く、アカデミー主演男優賞にまでノミネートされて、僕は本当に嬉しい。出来れば去年のうちに観ておいて、その感動を胸に年初の賞レースを迎えたかったのだが、日本公開がこの時期になってしまったのが残念といえば残念だ。
■いろいろ見てると、プロレスファンにはたまらない内容、との評が多いようだったが、往年のHR/HMファンにもたまらない内容であることも忘れてはならない。ロークとトメイに「80年代は最高、90年代は最低、カート・コバーンが全てをぶち壊した」みたいなことを、RATTをBGMに語らせてるけど、これって当時『BURRN!』やら『METAL GEAR』やらの愛読者だった連中の本音だったりする。ロックだけに、ぶち壊したモン勝ちであることは百も承知なのだけれど、だからこその悔しさや嫉妬がどうしても口を突いてしまう。いっそのこと、本作のヘビメタ版みたいなのも作ったらいいかもしれない。モデルとなるミュージシャンなら、ごまんといるだろう。
■「ミッキー・ロークのカムバック作!」という評、というかキャッチコピーには、多少の違和感がある。今世紀に入ってから、徐々にではあるが独特の存在感を発揮することに成功しつつあったからだ。それは確かに昔のような「唯一の主演」級ではないにせよ、「ミッキー・ロークがそこでその役を演じている」ことが、その作品の一つのファクターとなっているケースを、僕らはいくつも目撃している。だから、巷の印象のように、本作でゼロから100へのカムバックをしたのではなくて、60か70ぐらいから100になった、というのが僕の印象だ。ローク自身、「ゼロから100へ」の一作として本作を位置付けるような発言を繰り返してはいるが、だからそれは、「キャッチコピー」に準じてあえてそう発言してるんじゃないか、と、穿ってしまうのである。確かに本作は唐突に数多くの映画賞を彼にもたらしたが、仮に本作が無かったとしても、『シン・シティ』辺りの存在感でもって、「その昔ブイブイ言わせてたこともある、濃ゆい味わいの性格俳優」として十二分に活躍できてたはずだ。
■かつて(日本では某二大映画誌を中心に)、ミッキー・ロークを「セクシー俳優」としてアイドルのように祭り上げたムーブメントが…
(たった今、三沢光晴の訃報が…)
…あったが、僕等も、そして本人も、そこで勘違いしてしまったようだ。いざ、あの「上目遣いのセクシー面」をはがし、「モニョモニョセクシー声」をナシにしてみると、アクターズ・スタジオ仕込みなのかどうかは知らないけれど、「真っ当な演技派」と言うに相応しいロークの実力が浮かび上がってくる。本作で僕が堪能したのはまさにそこだった。『バーフライ』でも『フランチェスコ』でも、「セクシー俳優」イメージがバイアスとなってイマイチ堪能し切れなかった「実力」が、本作では遺憾なく発揮されている。
■文学には「読後感」というIMEでも一発変換されるタームがあるが、映画のそれ、即ち「鑑賞後感」について言うと、なんともふか~いところから絞り出るような哀しさがあった。実は、観る前の濃厚な予想の一つとして、結局のところ『ロッキー』と一緒の構造になってるんじゃないか、という一種の杞憂があったのだが(ロークはスタローンを兄のように慕っていた時期もあるらしいから尚更だった)、平べったい解釈で恐縮だけど、『ロッキー』のテーマが「孤独なチャレンジ」であるとするなら、本作のテーマは「孤独そのもの」であると感じた。ロッキーのチャレンジは殆ど誰も理解してくれない。だが、かろうじてそのチャレンジの断片でも理解してくれるようになったほんの数名は、エイドリアンやポーリーといった現実のファミリー、即ちボクサーだの何だのの立場を超えたインサイドだ。一方のランディは、客やレスラー仲間をファミリーだと言うけれど、それは己がレスラーであるという立場の上に成り立っている。当然だけどこれは外部に形成された(/しようとした)仮想的なファミリーであって、トメイやレイチェル・ウッドのようなインサイドではない。こういった対照的な構図がある。
■さらに言うなら、『ロッキー』は「お伽噺」で本作は「現実」である。この社会においては、「孤独そのもの」なんて平気でやってくる。アメリカン・ニュー・シネマに対するアンチとして『ロッキー』を捉える向きもあるが、だとすれば、本作はニュー・シネマの正統、もしくは続編に属するとも言えるかもしれない。そんな「鑑賞後感」があった。
■…と、グダグダ書いたけど、言いたいのはこういうことだ。ミッキー・ローク最高。そして、ありがとう。

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Mickey Rourke rises again

posted on 2009年2月24日 in 芸能

いやー、残念だった。アカデミー賞。

もちろん、『おくりびと』と『つみきのいえ』が受賞に至ったことはホントにうれしい。僕はどっちも未見だけれども、ことに『おくりびと』には日本文化や日本映画独特の何物かが詰まってると勝手に想像するし、それが評価されたということだとも想像するから、感慨もひとしおである。
モックンは何かタダモノならぬ気配がある。極めて謙虚な態度を崩さないのは恐らく日本人的な美徳から発せられるものだろうし、チェロや納棺士の技術習得のエピソードを見聞きするにつれ、俳優としての映画に対する取り組みはひとかたならぬものがあると思った。そもそも本作は彼自身の発案によって彼自身があたためて来たものらしいから、映画人としてのセンスも一流なのであろう。何よりツラ構えがいい。アブラっこさの無い、侘びやら寂びやらがきちんとハマるマスクをしている。その点渡辺謙は、ハリウッド向けのマスクである。
加えて、広末涼子がキレイだ。レッドカーペットを跋扈するどの女優よりもキレイだと思った。

さて、何が残念だったかというと、もちろん我らがミッキー・ロークである。
ショーン・ペンに主演男優賞を持っていかれてしまった。
そもそもロークは、事前のインタビューで「賞を獲るのはペンだろう」と言っていたし、ペンが監督の『プレッジ』辺りの経緯で、ペンに感謝していることは確かだから、何ら地団駄踏むような心持ではないとは思うのだが、ロークがこれから先、主演助演問わず男優賞にノミネートされる機会がまた巡ってくることがあるかどうかを考えると、ああいう性格だし、そもそも業界から好かれてなさそうだし、これが唯一のチャンスだったんじゃないかと思えて来るのである。初代『ロッキー』におけるスタローンみたいなもんだ。ちなみにスタローンの次回作の『エクスペンタブルズ』(即ちスタローン流アクション大作)にも出るらしい。オスカー狙う俳優が出るべき作品じゃないのは明らかだ。

そんなわけで残念がっていたら、当のショーン・ペンが受賞スピーチの一番最後に、「Mickey Rourke rises again. He is my brother.」とやった。
演技派といえるショーン・ペンがそこまで言うわけだし、あんた『バーフライ』とかでスゲー演技見せてくれたりもしたでしょ、作品さえちゃんと選びさえすれば、あんた自身は未練無いかもしれないけれど、またまたオスカーのチャンスは巡ってくるはずだよ、俺たちファンは、俳優としてのあんたがマトモに評価されるのを心待ちにしてるんだよ、…みたいなことを、本人に言いたい。そして、「お前ファックなヤツだな。そんなモン気にしてちゃ、やってらんねんだよ」みたいなことを、言われたい。
20年前と今とでは、随分とキャラが違うわけだが、正直彼の中でどっちが「主」でどっちが「従」なのかは、良く分からない。まぁ、その狭間で本人が悩んでたということなのだろうけど、この一連の経緯においては、今が「主」であることをタテマエとすることに、何ら異論は無い。
ただ、あのモニョモニョ声のミッキーへの愛着があるからこそ、今のミッキーも好きなんであって、そのことはちゃんと評価しようぜ、ということは言いたいし、本人にも認めて欲しい。

何はともあれ、「Mickey Rourke rises again」。
ショーン・ペンのこの言葉に、昨日の僕は救われた。

再びおめでとう! ミッキー・ローク!

posted on 2009年1月14日 in 芸能

我らがミッキー・ロークがゴールデングローブ賞の主演男優賞を獲得した。
ここまで来れば完全復活といっていい。同賞はアカデミー賞を占うというから、ひょっとしたらひょっとするかもしれない。

加えて更に嬉しいニュースが二つ。

今作、つまり『The Wrestler』の主題歌は、ブルース・スプリングスティーンによるもの であり、ロークとスプリングスティーンの友情によって成立したらしい。詳しくはリンクを参照されたいが、二人の間に友誼があったなぞ知らなかったし、況してや僕のヒーローの一人、ジョン・ボン・ジョヴィが崇拝するスプリングスティーンだから、僕の感慨もひとしおである。
本当は、僕がスプリングスティーンの立場になりたかった。いい曲書きまっせ。

シルヴェスター・スタローンの噂の次回作、『The Expendables』にロークが出演することが決まった
リンク先によると、これも友情絡みだそうで、かつて不遇の頃に『追撃者』に出演させてもらった恩返しとのことだが、前にも書いたが、そもそもロークはスタローンに一種の憧れがあるから、『ロッキー・ザ・ファイナル』、『ランボー 最後の戦場』と、いわばスタローンの「復活作」が少なくとも興行的にはパッとしない中、例え上記の恩などなくとも、お呼びがかかれば二つ返事で駆けつけたに違いない。

『The Wrestler』の日本公開は今夏だそうである。トレーラー を観ただけでウルウルしてしまった。

『天地人』に感じるちょっとした皮肉

posted on 2009年1月12日 in 芸能

NHK大河『天地人』。今日で二夜目だが、残念ながら半ばほどからの視聴となった。
良く言えば大河の王道、悪く言えば何の新味もないフツーの大河である。この様式美にほだされて、泣き所できちんと泣ける自分が好きだ。

阿部謙信は、角川映画の『天と地と』の榎本謙信とカブる。「本来の」(つまり通俗的な)謙信のイメージは戦術の天才で毘沙門天に身を捧げた男だから、ある種の狂気を纏っている。彼らの謙信は、それに比すると「狂気」が持つ逸脱性に欠けていて、要はマジメ過ぎるのである。今作の場合は主人公兼続に対してマトモな意味での父性を捧げるポジションだから、謙信があんまり狂気の人でも成り立たなくなってしまうのだろうが、ま、そう考えると、父性を帯びた謙信象というのはやや珍しくもある。

吉川信長。僕が芸能音楽に目覚めたのは大体小学校中学年の頃で、ヒーローは何を隠そう吉川晃司だった。あの肩幅、何とか自分のモノにならないかと、常々イカリ肩をキープするよう己を律していたことすらあった。彼の代表曲、『ラ・ヴィアンローズ』を耳にすると、当時の雰囲気が切なくフィードバックするほどである。ちなみに、作曲は大沢誉志幸で、大沢の『そして僕は途方に暮れる』は僕の中でJ-POPとして不動のNo.1だ。というわけで、吉川信長には大いに期待している。何が「というわけ」なのか分からないが。

私的なちょっとした皮肉は、『風林火山』のGacktが「美的な狂気のアイコン」として謙信を演じたところ、吉川が似たようなポジションに配されたことで、マジメ阿部謙信の立場や如何に、ということである。
たったそれだけではあるし、いつも以上にどうでもいい話なのだが、僕のとりあえずの『天地人』に対する興味は、まずはそこにあるのだから仕様がない。

ビートたけしの「照れ」と傲慢

posted on 2008年11月28日 in 芸能

25日に放送された『爆笑問題のニッポンの教養 』で、太田光が、「ビートたけしが、本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった、というのは、それは彼の照れであって、ずるい」というようなことを言っていたが、同感である。こういう太田のセンスとかスタンスは、僭越ながら僕のそれとかなり近いな、と思えるところがあって、番組の締め括りの彼の言葉(早稲田の学生に向けて「ピュアな気持ちや意思、考えを、世に訴えるには、芸に乗せなければならない、そのために芸を磨くべき、云々」)など、まさに我が意を得たりの心境であった。

それはともかく、ビートたけしの「照れ」についてだが、今朝「ズームイン!!SUPER」で例のお笑いBIG3特番 の番宣ニュースをやっていて、たけしがタモリとの関係を聞かれて「お互い照れ屋だから、会っても睨み合ってる」と言っていた。「睨み合ってる」は冗談としても、じゃあたけしは照れ屋かというと、それは違うだろう(タモリと相対すると照れ合ってしまうことは事実だろうが、かといってたけしやタモリが照れ屋であることにはならない)。ここ でも書いたけど、たけしの「照れ」はフリであって、何かを照れ隠そうとする戦略的な振る舞いだ。
じゃあ何を隠してるのかというと、バイタリティと動性のコンプレックスに溢れた成功者としての己の像である。「本当は数学者になりたかった、なれなかったから漫才師になった」というようなことを言い出すのは、恐らく90年ぐらいからであって、その頃にはたけしはすでにタレントとして栄華を極めていた。そこからさらに映画の世界でも世界的な成功を収めるのだが、たけしは、自身が、さらにそれ以上の存在になり得ることを暗示するために、「照れ」る。
つまり、あの「照れ」の意味は、「いや、そんなこと(タレントや映画作家としての成功)どうでもいいんだけど…」という傲慢だ。
「さらにそれ以上の存在」とはどんな存在か。それはバイク事故でもって己の生死すらも弄ぶような存在、なのかも知れない。

とにかく、ビートたけしは、日本の芸能史の中に一際大きな存在として刻まれるであろうことは間違いない。美空ひばり並みか、ともすればそれ以上だろう。

いよいよ今日から日テレのBIG3特番が始まる。まずは明石家さんまからだ。フジの『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!! 』以来、最近はBIG3が久々に大きくフィーチャーされ、全くもって嬉しい限りである。

≪BON JOVI 曲解説シリーズ≫ 07-03 ~ Thank You For Loving

posted on 2008年11月10日 in 芸能

『CRUSH』所収。

『KEEP THE FAITH』辺りから量産されるようになった、大仰なバラードの一つ。はっきり言ってこの程度の曲なら巷に腐るほど溢れているわけで、その辺のいわゆる「アマバン」ですら、ちょっと気の利く方ならサラサラっと書き上げてしまうであろうレベルである。

つまり音楽的にどうこうという曲ではなく、自分の身近で大切な人へ、例えば誕生日なんかの特別な瞬間に、面と向かって弾き語りつつ、日頃の感謝を捧げる用の曲なんだと思う。

だから歌詞がいい。いや、クサい。やや長いが訳詞を抜粋すると、
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僕を愛してくれてありがとう
物事が見えなくなったら
僕の目になってくれてありがとう
息ができなくなったら
閉ざした唇を開いてくれてありがとう
その愛を
ありがとう
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…だそうだ。タイプしてるだけで照れてくるのは一体何故だろう。

ちなみにこの曲から十数年前の「I’ll Be There For You」(『NEW JERSEY』)には、
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きみののどが渇いた時は
俺が水になってやろう
きみが酔っ払っている時は
俺がワインになってやろう
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という一節があり、何となく呼応してる気がしなくもない。giveとtakeの立場が逆転している点にジョンの人間的成熟を感じる。

ところで、リッチーの手癖リックに、「ドレラー(ラの前にソが装飾音符で入る)」というのがあるが、この曲のソロって、それをたった一回弾いただけではい終了、みたいな印象がある。

プロデューサー「リッチーさ~ん、ソロ行きます」
リッチー「うぃっす」
プロデューサー「はい、…キュー」
リッチー「ドレラー」
プロデューサー「ハイッ、OK」

そんな光景が繰り広げられたことは想像に難くないのだが、よく考えるとそれって凄いことで、ブルーズマンがチョーキング一発だけで場を成立させてしまうのに似てやしないか。まぁ、ただの横着と言えなくもないが…。

そんなわけで、正直アルバムの3曲目には相応しくない。そこはかつて、かの「Livin’ On A Prayer」や「Born To Be My Baby」が鎮座していた神聖なる場所である。せいぜい8曲目(LPで言うところのB面中ほど)辺りに控えて然るべきではないか。

≪BON JOVI 曲解説シリーズ≫ 07-05 ~ Lie To Me

posted on 2008年11月8日 in 芸能

『THESE DAYS』所収。

BON JOVI の歴史は、次の4つに区分出来ると思う。
A.) 黎明期…『BON JOVI』、『7800°FAHRENHEIT』
B.) 隆盛期…『SLIPPERY WHEN WET』 、『NEW JERSEY』
C.) 円熟期…『KEEP THE FAITH』~『THESE DAYS』
D.) 復興期…『CRUSH』~『HAVE A NICE DAY』
この中で音楽的に最も特異と思われるのは、円熟期である。他は「ハードロック」(ないし「ハードポップ」)とカテゴライズするのが最も適当だろうが、円熟期だけはそれを拒むのだ。リッチーのギターのアレンジとサウンドメイクにそれが最もよく現れているのだが、もう単純に、「パワーコード率」の低さと「歪み成分の量」の少なさ、これだけでその特異さが充分見て取れる。

円熟期において、いわゆる「パワーコードの壁」で成立している曲は、僅かに『KEEP~』の「If I Was Your Mother」、「Fear」、「I Want You」の3曲のみで、『THESE~』に至っては一曲も無い。思えば隆盛期のギターバッキングの実に6割はパワーコードだったわけで(残りの2割は単音中心のリフ、2割はその他)、復興期の幕開けを高らかに宣言した「It’s My Life」(『CRUSH』)なんかは、リフ自体がパワーコードのためほとんどパワーコードしか弾いてもらえないという、可哀想な楽曲だったりもする。

「歪み成分の量」もそれに伴って減少するが、歪みを数値化できるなら、『NEW JERSEY』の歪み総量10に対し、『THESE~』2~3といったところじゃないか。アンプラグドに片足突っ込んでるといっていい。

故に、「ハード」というカンムリは外さざるを得ない。替わりに「アダルト」が来るのかどうか知らなけど、とにかくポピュラーミュージックとしてその音楽性において、深ぁ~い味わいを獲得するに至ったのである。

この脱「ハード」路線には、もちろんBON JOVI ファンの中でも賛否両論あるのだが、とりわけ思春期の始めに「Livin’ On A Prayer」でハマったパターンの場合、調度『THESE~』のリリース時期に20代を迎え、落ち着いた大人のムードも嗜み始めたころで、BON JOVI の変化を受け入れることで「あ~、俺も成人になったんだ」と自らを納得させたものである。まさにBON JOVI と共に成長していったといっても過言ではない。もっとも、CDを売る側からしてみれば、隆盛期につかんだ顧客層に合わせてBON JOVI という商品をマイナーチェンジしていっただけなわけで、我々はすっかりその戦略に乗せられてしまっているのであった。復興期に結婚し子をなし、「Have A Nice Day」を家庭内ヘヴィローテーションしてしまうようになったらもうダメである。その子がBON JOVI 第2世代として、今後ユニバーサル・ミュージックの売り上げに多大なる貢献を果たすようになるであろうことは、想像に難くない。

『THESE~』自体のアメリカにおけるセールスは芳しいものではなかったらしく、日本ではオリコンのアルバムチャート1位を獲得したものの「BON JOVI 史上最も地味なアルバム」とすら評され、ジョンをしてのちに「あのアルバムは暗かった…」とまで言わしめてしまう始末で、一般にはどうもトホホな印象があるこのアルバムだが、とんでもない話である。『THESE~』こそがBON JOVI の9枚のオリジナル・フルアルバムの中で、最も音楽的完成度が高い作品であることを、ここで訴えたい。BON JOVI なぞガキの聴く音楽で80年代商業主義ロックの残滓ではないかというその主張の半ばは正鵠を射ているが、あながちそんなんばっかりでもないんすよ、と、下手に出つつ反駁を試みるには持って来いの一枚なのだ。逆にメタルファンには聴かせられない。今まで辛うじて彼らとの共同幻想を保ち得ていたが、ここまで来るとさすがにメタルでも何でもないってことをカミングアウトしなければならない以上、それを見事に裏切ることになること請け合いだからある。ミスターHR/HMとでもいうべき伊藤政則が因果によってこのアルバムのライナーを書いているのだが、何とも引き受けづらかったのではないかとすら思える。

さて、この「Lie To Me」だが、どうやらシングルカットされたらしい。ゆったりとしたふくらみのある心地よいバラードなのだが、とにかくバラードが充実している『THESE~』にあっては、「(It’s Hard) Letting You Go」なり「Something To Believe In」の方が明らかに優れていると言えるわけで、なんでそれらを差し置いて、どちらかというと凡作の部類に入るこの曲をシングルカットしてしまったのか、いささか理解に苦しむ所ではある。

ギターソロ手前のストリングスによるブリッジが、何となくビートルズを連想させる。

日テレの、お笑いBIG3特番

posted on 2008年11月1日 in 芸能

いや~、日テレさん、やってしまいましたね。
コレ だ。
職場で笑いのイニシアチヴを「エンタの神様」世代にすっかり奪われてしまっている僕にとって、「お前ら、お笑いってヤツはなー」とウサを晴らす絶好の機会がやってきた。
そんだけのことを、BIG3はやってくれるはずだ。いや、やってくれ。これは僕の死活問題だ。
ホントは、三人のカラミが観たい、どころか渇望しているのだが、どうやらそれは叶わぬらしい。もしかしたら、縁起でもないが、三人のうちの誰かの葬儀でしか、最早それは実現しないのかもしれない。
さんま→タモリ→たけし、という順番が気になる。この場合、一番軽んじられているのは真ん中のタモリである。十数年前なら、たけし→さんま→タモリ、となったはずだが、今や、それこそ「エンタの神様」世代あたりには、せいぜい「笑いも取れる司会者」、というか、「たまに笑いも取りに行く司会者」程度にしか認識されていないからこその結果なのか。
お前ら、「ソバヤ」聴け。「四ヶ国麻雀」聴け。「誰でも弾けるチック・コリア」聴け。「寺山修司はこんなこというだろうモノマネ」聴け。

タモリ、そして、「ブラ」と「チャレンジ」の狭間

posted on 2008年10月27日 in 芸能

NHKで、久々にタモリの番組を組むらしい。その名も「ブラタモリ 」。

「エチカの鏡~ココロにキクTV~」に続き、新たなタモリのチャレンジが観られるのは、一ファンとして嬉しいことだ。ま、タモリのことだから、「チャレンジ」などという意味合いはないんだろうけど。
巷間にはタモリという人はそういう人だと伝わるが、反面、彼と仕事で関わる人を中心に、「タモリはサラリーマンの心を持っている。『笑っていいとも!』を毎日毎日こなせるのは、その心があるからに違いない」説もあって、そうだとしたら、意外とこれは仕事人としての「チャレンジ」である可能性はある。あるのだが、それを隠して「チャレンジ」と見せないのではなくて(ビートたけしは「チャレンジ」を照れ隠してしまうキャラを演じている)、ちょっと上手く言えないけど、無心でもってそれをやってるんだろうから、結果として、それは何の覚悟もない「チャレンジ」なんだろう。それが果たして「チャレンジ」かというと、やっぱり「チャレンジ」ではない、という気がする。いや、けど、僕もNHKにほんのちょっとだけ出演したことがあるけど(しかもローカルだ)、せいぜいウン十秒のシーンに厭になるほど結構な打ち合わせを重ねた。「NHKでは珍しく、セリフを決めずに全編アドリブで収録する試みに挑んだ」とあるが、それは主体としてはNHKの「挑み」=「チャレンジ」だけど、あのNHKにそんな「挑み」をさせてしまうことに対する「気負い」、即ち「チャレンジ」は、タモリの側にはないんだろうか。属性が「サラリーマン」なら、確実にそれはある。あらざるを得ない。
どうでもいいことをだらだらと書き連ねてしまった。普通に考えると、タモリが覚悟を伴った「チャレンジ」などする筈がない、という結論になることは重々理解している。だけど、この人は本当は一体どう考えているんだろう、と、あれこれ考えさせてしまうところに、タモリという存在の凄みがある。

番組名に心が躍る。
この、「ブラ」と「チャレンジ」の狭間で、一体どう振舞ってくれるのか。放送日には、出来るだけいい酒を用意しておくことにしよう。

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